脳は脳を理解できない

より正確には「脳は、自分の脳自身を100%完全に理解できない」です。
もし脳が100%完全に脳自身を理解できたとしたら、
脳の中に、脳の持つ情報の全てがすっぽりと含まれることになります。
そして、その脳の中にある脳の情報は、また脳自身の情報をそっくりそのまま含んでいるはずです。
そして、その脳の中にある脳の中にある脳は、また脳自身の情報を・・・
というわけで、脳の中にある脳の連鎖が無限に続くことになります。
ちょうど合わせ鏡のように。

集合Sは、もしそれ自身の真部分集合に相似ならば、「無限」であるといい、
そうでない場合にはSを「有限」集合であるという。
     -- 数について(デーデキント)より
     -- なぜ1+1=2になるのか [id:rikunora:20080918]

有限の人知で無限を理解することは不可能なので、脳は脳自身を100%理解することはできません。

視覚を例にとってみましょう。
人間の目の構造の説明として、こんな絵を見たことがあるかと思います。
  >> wikipedia:網膜
眼球の後ろに網膜があって、いま見ている風景が網膜に写し出される。
そこまでは良いのですが、それでは、この網膜に写し出された風景を、一体「誰が」見ているのでしょうか。
もし脳が網膜を見ているのだとすると、脳の中には映画館のようなものがある、ということになるでしょう。
その映画館には観客が居るはずです。
観客は脳の中に住んでいる小人のようなもので、その小人が上映されている映画を見ているのかな?
だとすれば、その小人の持っている目はどのようになっているのでしょうか?
きっと小人の目にも網膜のようなものがあって、そこに写し出されている・・・

あるいは、こんなことを考えてみてください。
脳手術の要領で頭蓋骨を開けて、自分で、自分の脳を直接のぞいてみたとしましょう。
今、見ている脳の中には、自分が見ている情報の全てが入っているはずです。
網膜というスクリーンを、自分の目で直接見てみたら?
あるいは脳内に流れる視覚情報を、医療機器の力を借りて映像化して、自分の目で見たとしたら?
無限ループに陥るでしょう。
実際に合わせ鏡をやってみると、遠くの鏡はだんだん小さくなってゆくし、だんだん暗くなってゆく。
なので、実際の合わせ鏡の映像であれば、1つの絵として何とか受け容れることができる。
しかし、脳内に流れる視覚情報を余すところ無く「見る」のは、それとは違います。
途中に減衰するものが全く無ければ、手加減なしの無限が容赦なく襲ってきます。
なので、人間は自分の視覚自体を100%完全に「見る」ことはできない。
それと同じ理屈で、脳は脳自身を完全に理解することはできないはずです。

だからといって、脳は脳のことを全く理解できないわけではありません。
仮に、脳が脳のことを半分まで理解できたとしましょう。
すると、脳の中の脳には、1/2 x 1/2 = 1/4 の情報が含まれることになります。
脳の中の脳の中の脳には、1/2 x 1/2 x 1/2 = 1/8 の情報が含まれることになります。
これをどこまでも繰り返して、全部の脳の情報を足し合わせると
1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 ・・・ = 1
合わせて1になるのだから、脳は脳自身を半分までは理解可能だということです。
理解が半分を越えると総和が1を越えるので、1人の脳に収まり切らなくなります。
たとえ脳の全てを1人で理解できなくても、複数の専門家が分担して理解することは可能かもしれません。
例えば、いま目の前にあるパソコンについて、半導体プロセスからソフトウェアの使いこなしまで、
1人で全てを理解している人はまれでしょう。
それでも各部分について詳しい専門家がいれば、社会を営む人間全体としては困らないわけです。
パソコンと同じように複数の専門家でカバーすれば、脳についてだって完全理解に近づけるでしょう。
仮に、脳が脳の99%までを理解できるのだとすれば、
(99/100) + (99/100)^2 + (99/100)^3 + ・・・ = 100
つまり100人の専門家がいれば、1人の人間の脳の99%までは理解可能ということです。

専門家の数を増やしてゆけば、脳理解のカバー率はどんどん上がってゆきます。
99% が 99.9% になり、99.99% になり、99.9999・・・% になり、、、
しかし、どこまで専門家を増やしていっても、決してカバー率 100% の完全理解には到達できません。
100%未満であれば有限、100%は無限になるからです。
人類の持てる知識としては 99.9999% あたりで充分満足すべきでしょう。

でも、人類が古来から本当に知りたかったことは、
決して知り得ない残りの 0.00001% に含まれているという気がします。
人が古来から本当に知りたかったこと、それは
  「私は一体誰か?」
という問い掛けです。
人の精神の不思議なところは、有限の存在でありながら、その内に無限を有しているということ。
無限であるが故に、永久に知り得ない。
自我とは、
  「私が自分である」
という強い思い込みのことです。
あるいは、自分の存在根拠は
  「我思う、故に我あり」
です。
上の2つの言葉、どちらも自己言及であり、無限ループを内包していませんか。
自分自身による自分へのフィードバックは、ある一定値を超えたときに、発散して理解の限界を超えることになります。
それが一人の人間の中で完結していたのなら、1ループで自身の半分以上をフィードバックすれば、
ループの総量は自身の理解の限界を超えることになります。
何を持って「半分以上」とするのか。
つまるところそれは情報量の大きさで測られるべきなのでしょうが、
まだ誰も脳内に流れる情報量を正確に計測できていません。
それでも、人が自分自身で理解することのできない自我を有していることからすると、
「私が自分である」という思い込みはとっくに限界点を超えているように感じられるのです。

ここまで大風呂敷を広げたので、あと2つばかり話題を付け足します。
1つ目。
自分で自分自身が理解できないのと同様、人が相互に他人を100%理解することはできない。

自分が相手を理解し、相手が自分を理解できたなら、全体として無限ループを形成するからです。
この図って、無限大の記号∞みたいですね。

2つ目。
自分の中をグルグル回っている無限ループは、創造性に深く関わっているように思える。
いわゆるクリエイティブなものは、自分で自分をどこまでも見つめ直すループの中から生まれるような気がします。
自己言及ループ無しに、外界から取り入れた情報をそのまま出力したら、それは単なるコピーでしょう。

なので、この図のように、いつでも何かがグルグル回っている状態というのが大事なのではないかと思うのです。