人格公開の刑

最も重い刑罰としての、死刑の可否が議論されている。
自由と人権の国、フランスでは死刑を廃止して久しい。
では、日本はどうするか。
科学の国、日本として、死刑よりもっと効果的な刑罰をここに提案しよう。
それは「人格公開の刑」である。
残念ながら、この刑罰を実施するためには、脳科学、人間科学、社会科学のさらなる発展が必要となる。
なので、以下は近い将来、死刑にとって変わるであろう制度についてのお話である。

「人格公開の刑」とは、その人の持つ人格、記憶、思考、行動パターン、遺伝子配列、身体特性、摂取した物質、酵素の量、その他あらゆる個人情報データの全てを公開する、という刑である。
いわば「完全なオープンソース」である。
この刑に処せられた人間は、本当の意味でプライバシーゼロ、何1つ隠されたものを持たない。
その人が何を考え、何を判断し、何を行うか、その全てがわかってしまう、ということだ。

なぜ「人格公開の刑」が死刑よりも恐ろしいのだろうか?
あまりピンとこないかもしれないので、以下に想像してみよう。
一見すると、プライバシーと共に失うものは、さほど大きくないようにも思える。
コッソリと恥ずかしい本を見れないとか、不倫や浮気ができないとか、その程度ではないか。
いっそ開き直って公開すれば、かえってすがすがしい人生を送れるかもしれない。

確かに、現在の科学レベルでは、その程度かもしれない。
しかし、将来脳科学が発達した暁には、事態はもっと深刻になる。
近い将来(あるいは遠い将来)、脳の動作を直接読み取って、今、何を考えているのか、その場でわかるような機械が開発されるだろう。
「人格公開の刑」に処せられた人は、その機械を常に身につけていなければならないのである。
そして、脳内読み取り装置のモニターには、今その人の考えていることが、そっくりそのまま映し出されるのだ。
(そういえば 脳内メーカー というサイトが話題を呼んでいたっけ。あれのリアル版と思えばよい。)
例えば、通りすがりの美人に出くわしたら、「あ、いい女、やりて〜」などといった情報がモニターに表示される。
あるいは、もっとビジュアルな映像が映し出されるかもしれない。
いやなやつに出くわしたら、「むかつくんだよ、このおっさん、死ね!」などと表示される。
そしてこのモニターは、顔の上に貼られていて、周囲から自由に見ることができるのだ。
「ブランド物が欲しいだって、生意気なんだよブスのくせに。まあ、でも機嫌くらいとっておかなきゃな、滑り止めに。」
「友人ずらしやがって、ほんとは見下してるだろ、この野郎。目的は金か?」
「うぜえんだよ、無能なくせに上司気取りやがって。ああ、ゴマをするのも楽じゃない・・・」
はっきり言おう。
もし人類全員が、この脳内読み取りモニターを装着したら、社会は崩壊する。
人格公開の刑に処せられた人は、この社会崩壊の衝撃を一身に引き受けるのである。
この状態で、いわゆる普通の社会生活を送ることは不可能であろう。
行動を起こす前に、常に衆人からのチェックを受けるので、これ以上悪いこともできない。
殺す前に「殺してやる!」と出るので、事前に殺人を回避できる。
また、テストなどせずとも脳内回路と思考パターンから、次に何を考え、何を行うのか、高い確率で予測できる。
もちろん、この予測値もモニターに公開される。
お釈迦様のように、妖怪サトリのように、全てを見透かされてしまうのだ。
「危険人物」に脳内読み取りモニターを付けておくのは、社会の平穏を保つには極めて有効な手段だと思われる。

人格公開の恐ろしさは、周囲の人間に公開することではなく、自分自身に対して公開することにある。
つまり「鏡で自分の心を映し出すこと」にある。
もし鏡というものがなかったら、人が己に対して抱くイメージは大きく変わっただろう。
恐らく大半の人は、鏡に映し出される像よりも、ずっと良いものを抱いていると思うのである。
人格公開の刑に処せられた人は、日々、己の醜い部分と対面することになる。
これは拷問に近い。
それでも、肝のすわった悪人であれば、その程度のことでは動じないかもしれない。
あるいは人間には適応能力があって「どうせ俺はこの程度の人間さ」と開き直れば、たいして苦痛ではなくなるのかもしれない。
鏡だってそのうち慣れてくるではないか。
しかし、人格公開の真の恐ろしさは、この程度ではない。
真の恐ろしさは、その人から想像力、創造力を全て奪い取ることにあるのだ。

そもそも、なぜ人は秘密を持つのだろう。
最初から嘘も秘密も持たない、完全なオープンソース状態であったなら、素晴らしい社会が築けたのではないか。
言葉をしゃべり始めて間もない、3歳児程度の子供は、思ったことは何でもそのまま口に出すのだと聞いたことがある。
つまり3歳児には、裏と表が全く無いのである。
もし裏と表に関しては3歳児のまま、清らかに成長すれば、人類はややこしい人間関係に悩まなくて済んだはずだ。
なのに、実際には大人になるにつれ、人は多かれ少なかれ必ず裏と表を作る。
3歳児のように、思ったことを全て口にする人は、まずいない。
裏と表には、わざわざ複雑な構造を用意するだけの、何か積極的な意味があるはずだ。

まっさきに思いつくのは、隠しておいた方が得をする、といった状況だろう。
例えば、こっそり食べ物を隠しておいて、あとで一人占めする、といった状況だ。
しかし、社会生活上の経験からすれば、こそこそ隠して結果的に得したことなどほとんどない。
「腹を割って」話した方が、結果的には低コスト(変に神経を使わない)で得をする。
食べ物だって、こっそり隠さずみんなで分けていれば、次の機会に今度はきっと分けてもらえるだろう。
正直は最良の策なのだ。

であれば、裏と表の本当の意味は何なのだろうか。
私は、隠された部分が想像力、ひいては創造力に直結しているのではないかと考えている。
私は他人の脳内を覗いたことがないので、以下の話が万人にあてはまるかどうか、断言はできない。
ただ、自分の脳内を省みるに、「己に対する未知」こそが重要な鍵を握っていると思えてくるのだ。

考え事の深さを決める重要な要因とは、何か。
それは「もう1人の自分」だと思う。
自問自答、あるいは「脳の中に、語ることができる友人が住んでいる」ということである。
思考というものは、言葉にして語りかけた瞬間に実を結ぶ。
わからないときには、だいたい「何がわからないのかが、わからない」。
疑問は明確な言葉になった時点で、8割方解けているのである。
なので、まず第1に「言葉にして語りかける」というプロセスが非常に重要だ。
このとき、語りかける相手がいないと、一次的、直線的な反応しかできない。
一次的な反応とは、思考が一段階だということ。
  敵 => 嫌!
  ごはん => おいしい
  女(異性)=> いい!
こんな感じだ。
ところが、ここで語りかける相手を内部に持っていれば、どうなるか。
  敵 => 嫌!=> だけど、君はどう思う => 「勇気を奮い起こせ、あんなのたいしたことはない。」
このように、二段階の思考が構成できる。
重要なのは、最後の言葉が「自分であって自分ではない、もう一人の自分」から発せられることだ。

さらに、「もう1人の自分」から多段階の思考を引き出すことができる。
分かりやすいのは、頭の中で天使と悪魔が葛藤する場面だろう。
  「神様が見ている、君はそれでも満足なのか?」
  「誰も見ちゃいねーよ、やれ、やれ、やっちまえ!」
という葛藤を、誰でも一度は体験したことがあるだろう。
このように「性格の異なった人格を頭の中で戦わせること」が、あるレベル以上の思考には不可欠だ。
賛成派と反対派を戦わせて、何段階ものプロセスを経た結論が導き出せる。
改めて文章にすると何かすごいことをやっているように思えるが(事実脳はすごいことをしているのだが)、実際には誰もが行っているアタリマエのプロセスに過ぎない。
誰もが何らかの考えを抱いているだろうし、いくらかの秘密も抱いているのだから。

さて、この「もう一人の自分」と、人格公開の間にはどんな関係があるのだろうか。
両者は影と光の関係にある。
というのは、自分の思考プロセスの全てが赤裸々に明かされると、「もう一人の自分」が持てなくなってしまうのだ。
そもそも会話というものは、相手が何を返してくるのかわからないからこそ楽しいのだ。
期待した答が返ってくるのか、意外な反応を示すのか、つれない返事が返ってくるのか。
その意外性を楽しむのが、会話の妙である。
もし会話を始める前に、既に相手が何を答えるか、結論が全てわかっていたとしたらどうだろう。
会話は実につまらないものになる、というより、おそらく会話などしない。
これと同じことが、「自分との会話」についてもあてはまる。
最初から結果が分かっているなら、自分との会話も成り立たない。
というより、自分自身の場合「もう一人の自分」を設定する意味が失せてしまう。
こう考えてみると、自分の中に「もう一人の自分」を持つ意味がわかってくるだろう。
「もう一人の自分」とは、即ち「自分の中にある、未知なる自分」なのだ。
自分の中の未知なる部分を失うことによって、人は多段階の思考プロセスを失ってしまう。
多段階の思考プロセスを失った人間は、おそらく3歳児程度にまで退化するものと思われる。

それだけではない。
人格公開は、人間のもっと根源的な存在を奪う力を持っているのだ。
あなたがひらめき、思いつき、創造、といった体験に出くわしたとき、そのひらめきはどこからやってきたのだろうか。
とても不思議なことに、それは既知の意識下に置かれた領域からやってくるのではない。
「天啓は未知の領域からやってくる」のだ。
既によく知っている、分かり切った部品を論理的に組み合わせたところで、思考の飛躍は望めないであろう。
ここは大事なところである。
真の創造は、あなた自身が作り出すと言うよりも、あなた自身もよく知らない未知の部分から湧いてくるのである。
意識は、湧いてきたものを後から整理しているだけに過ぎない。
むしろ人間の核心部は、よく知らない未知の部分の側にある。

なぜ未知の部分に創造の源泉があるのか、私にもよく分からない。
私だけでなく、原理的に、この謎が解ける人はいないはずだと思う。
何せ未知の部分なのだから。
私は、人間の思考には2種類あるのではないかと思っている。
1つは論理的な思考、いま1つは夢想的な思考である。
(それが、よく言われる右脳と左脳に関連付いているかどうかは、よくわからない。たぶん違うと思う。)
そして意識は論理的な思考を司り、夢想的な思考の大部分は未知の領域に属している。
数学とコンピューターが発達した現代から見れば、論理的な思考とはさほど難しいものではない。
P ならば Q であるとか、包含関係とか、AND, OR, NOT を組み合わせることによって論理的な思考は実現できる。
その気になれば、論理的な思考は機械にでも代替が効く代物だ。
そうなってみると、機械に代替の効かない夢想的な思考の方に、自ずと興味が移る。
夢想的な思考とは、思考の断片の海のようなものだと思う。
ぼーっとしているとき、夢から覚めたとき、あるいは夢の中で、思考の断片は非論理的に、何の脈絡もなく、くっついたり離れたりする。
そうした数限りない思考の連鎖の中から、あるとき偶然目的に見合ったものが進化してくるのだろう。
思考の形成は、進化のプロセスに似たところがある。
原始の海洋で、RNAだかアミノ酸だかが偶然結合したように、脳という海の中で、記号とイメージの断片がとりとめもなく結合を繰り返す。
そしてあるとき、神のみわざとも思える奇跡によって、脳の海の中からまとまった思考が浮かび上がってくるのだ。
こんなプロセスが、あたりまえのように日々の脳内で繰り返されていることを思うと、改めて人間とは存在自体が奇跡なのだと思えてくる。

さて、以上の創造のプロセスを念頭に置けば、人間にとって「未知なる部分」がいかに重要か、分かることと思う。
「人間の核心部は、よく知らない未知の部分の側にある」のだ。
そして、未知の部分を失うことは、実は人間そのものを失うにも等しいのである。
人格公開の真の恐ろしさは、人間から未知なる部分を消し去ることにあるのだ。
確かに、自分のこっそり行っていた行為が恥ずかしいとか、まとまった考えが持てなくなるとか、それも嫌なことには違いない。
それでも、たかが恥ずかしい程度では、死刑に比べれば何てこともない。
そんなことを言っているのではない。
人間から未知の部分を消し去ることは、実は死よりも恐ろしいことなのである。
人格の完全な公開とは、思考の海に埋もれたイメージの断片を、全てさらってきて日干しにするようなものだ。
それは、間違いなくその当人の人格を破壊するであろう。
おそらく、人格公開を行った後の人間は、発狂するか、自ら死を選ぶことになると思う。
死刑で殺せば怨念が残る。
人格公開の後、自殺を選ぶ人間には、怨念すら残らない。

昨今の世の中には、何でもオープンにして、公開すれば全てが解決するといった風潮が行き渡っているような気がする。
しかし私は、どうもこの風潮にはなじめない。
どこぞのCMのように、つながる、つながる、とかいって喜んでいるのは、人間というものをまったくわかっちゃいない。
いわゆる「表」の、ほんの表層部分だけしか見ていないのである。
そういう人には、ほんの少しで良いから自己の深淵を覗かせてみたいものだ。

社会的に多少の混乱があったとしても、人に裏表は欠かせないのだ。
第一、秘密の無い人生なんて、つまらないではないか。