なぜ転売ヤーは悪なのか

転売ヤーは経済の仕組みに則って、需要のある所に供給しているだけではないか。
それがなぜ悪いのか?
こっそり転売を行い、ばれたら謝罪している議員がいたようだが、なぜ謝るのか理解に苦しむ。
むしろ正々堂々と、“機転の利く私はこのような方法で経済活動を行いました”と主張すべきではないか。

・・・という意見を、とある若い人から指摘されて、私は即座に気の利いた返答ができなかった。
一両日考えて、きっとこうだろうと思い至った答を以下に記す。


[1].転売ヤーは、決してそれ自体が“悪”なのではない。
[2].ただ、転売ヤーを“悪”にした方が都合の良い人たちは、「転売ヤー=悪」であると主張する。
 そのように主張することもまた、悪ではない。
[3].そして、「転売ヤー=悪」だと考える人たちが多数派であるならば、転売ヤー自身は内心“自分は悪くない”と思っていたとしても、公衆の面前で謝るという選択を採用する。
 故に、転売ヤーはコソコソ行動する。この選択もまた、悪ではない。
[4].結局、どこにも“悪”は無く、あるのは合理的選択だけだったのである。
[5].転売ヤーと、「転売ヤー=悪」だと考える人たちの、どちらが主流となり、多数決の上での正義を占めるのか?
 その選択は最終的に、転売ヤーを利用するか、拒否するかという、消費者の行動にかかっている。
 それが自由資本主義社会の意思決定方法というものである。

話を複雑にするので、不正転売禁止法や、条例で禁止されている場合のことは、ひとまず脇に置いておこう。
ここで問題にしたいのは、仮に法律や条例が許したとしたら、転売という行為それ自体が“悪”なのかどうかである。

[1].転売ヤーは、それ自体が“悪”なのではない。

確かに件の若い人が言うように、需要あるところに、適正な価格で供給するのが経済というものである。
もし、10万円出してもマスクを買いたい!という人が居たなら、10万円で売るのが自由市場だ。
そこに、何ら“悪”は無い。

[2].転売ヤーを“悪”にした方が都合の良い人たちは、「転売ヤー=悪」であると主張する。

ならば自由市場に任せて、皆が一斉に価格を吊り上げれば良いではないか、と思うかもしれないが、現にそうなってはいない。
これはどうしたことか。
ここで、自分が「マスクを売るショップの店長」になったつもりで考えてみよう。
店長は、できることなら価格を吊り上げたい。当然、吊り上げた方が儲かる。
それでも大半のショップは、価格の吊り上げを実際には行わなかった。
なぜだろうか。
もちろん、そんなことをすれば即座に顧客の信用を失うからである。
たとえ今日、マスクが10万円で売れたとしても、マスクの品不足はいずれ解消するだろう。
そのときになって、顧客はきっとこう言うに違いない。
「あのショップは品薄だったとき、私たちの足元を見て、とんでもない価格でマスクを売りつけた。
 あのときは仕方なく買ったけど、今後、あのショップで買うことは止めよう。」
こうした顧客の気持ちが容易に想像できるので、ショップの店長としては、次の2択を迫られることになる。

 (1): 今日の10万円を採るか。
 (2): 明日の顧客を採るか。

もし私がショップの店長であったなら、明日の顧客の方を選ぶ。
ここで、店長が情にあふれる人徳者だったか、計算高い功利主義者であったかは、結果に何ら影響を与えない。
(おそらくショップの雰囲気には影響を与えると思うが、今の議論には関係ない。)
とにかく“明日の顧客”を選んだという、結果だけが重要なのである。
逆に言えば、明日の顧客より、今日の10万円を選んだ人たちが“転売ヤー”なのである。

実際、私はとあるショップの店長が転売を行なわなかった経緯を聞いたことがある。
その店長は、たまたまマスクが手に入ったので、ふと“マスク付き商品”の販売が頭をよぎったのだそうだ。
しかし、実際に“マスク付き商品”の販売は行わなかった。
そんなことをしたら、顧客の信用を失うと考えたからである。

ここで冷静に、あくまでも功利的に考えるなら、今日のショップが価格を吊り上げなかったからといって、明日のショップも依然として消費者の味方である、という保証はどこにも無い。
また、価格を吊り上げなかったからといって、顧客が喜んでショップのファンになる、という保証も無い。
ショップと顧客の間で、何か特別な契約を取り交わしたわけではないのである。
「価格を吊り上げなかった → ショップと顧客の相互利益」という図式には、何1つ確かな根拠が無い。
なので、これを「非合理な選択」だと言う人もいるが、私はそうは思わない。
なぜなら、ショップは実際に顧客が買う・買わないの行動結果を示す“前に”、手持ちの情報だけで判断を下さなければならないからである。
ショップにしてみれば、何らかの確実な根拠に基づいて“本当に”顧客の信用が得られるかが問題なのではない。
顧客の信用を“落とすかもしれない”という選択肢が、店長の頭に浮かぶかどうかだけが問題なのである。
顧客離れの“恐れがある”というだけで、多くの店長にとって“明日の顧客”が合理的な選択となる。

この店長の心理は重要なポイントだと思うので、もう少し掘り下げてみたい。
マスクに関して言えば、私は内心「マスクは直接にはウィルスに対して効果が無い」と思っている。
というのも、コロナウイルスの大きさはおよそ100nm程度、マスクの目の大きさは数μmレベルなので、マスクによってウィルスを濾し取るのは無理な話だからだ。
それでも、私は外出するとき(本心に反して)「マスクを付ける」という選択を行っている。
なぜかというと、周囲の人から「あの人はマスクを着けていない、配慮に欠けた人だ」と見られたくないからである。
ここで、本当に周囲の人がそう思うかどうかは問題ではない。
また、マスクが本当に効果があるかどうかも問題ではない。
私の頭に「周囲の人に猜疑の目を向けられるかもしれない」という選択肢が浮かぶことが問題なのだ。
思い浮かべただけで、私は「マスクを付ける」という選択肢を選ばざるを得ないのである。
多くの店長が“明日の顧客”を選ぶのも、心理的には私のマスク着用の選択に似ている。
「本当に顧客がどう思うか」が問題なのではなく、「きっと顧客はこう考えるだろう」と店長が思い浮かべることが問題なのだ。

さて、こうして多くの店長が“明日の顧客”を選択した後、転売ヤーの存在をどう考えるだろうか。
明らかに、転売ヤーはショップにとっての競合相手である。
ショップにとって、顧客が今すぐ転売ヤーから10万円のマスクを購入するより、
少しの間我慢してもらって、将来“信頼のおける”ショップで買ってもらった方がずっと良い。
そのため、ショップは「転売ヤーは、消費者の足元を見る、信頼のおけない“悪”である」と主張することになる。
つまり、ショップは「転売ヤーを“悪”にした方が都合の良い人たち」なのだ。

[3].転売ヤーは内心“自分は悪くない”と思っていたとしても、公衆の面前で謝るという選択を採用する。

では、今度は転売ヤーの立場に立って考えてみよう。
もしあなたが転売ヤーだったとして、ネットオークションで高額のマスクを売りさばいていたとする。
それがひょんなことで、あなたの友人・知人に知られたとしよう。
このとき、あなたは次の2択を迫られることになる。

 (1): 上に書いたような説明を行った後、自分の無罪を主張する。
 (2): 言い訳をせず、素直に謝る。

どうだろうか。
私なら“素直に謝る”方を選択する。
なぜかというと、(1)の説明を相手が受け入れてくれない、納得しない恐れが多分にあるからだ。
ここでも、(1)の説明が本当に正しいかどうかは問題ではない。
また、実際に説明した“後で”、相手が納得するか、しないかも問題ではない。
"相手が納得しないかもしれない"という恐れが転売ヤーの脳裏に浮かんだだけで、多くの転売ヤーは“素直に謝る”方を選択せざるを得ないのだ。
説明を行う“前に”転売ヤーは手持ちの情報だけで判断を下さなければならない。
この“情報の非対称性”については、ショップの店長も、転売ヤーも、同様の状況に置かれているのである。

この転売ヤーの選択については、自分が県議会議員といったような立場にあったと想像すれば、より分かりやすい。
もし自分が議員だったなら、多くの有権者は (1), (2) の選択のどちらを受け入れるだろうか?
あるいは、「多くの有権者に受け入れてもらえるだろう」と議員が考える選択肢は、どちらだろうか。
悩むまでもなく、(2)の謝罪である。
たとえ内心、「本当は私は悪いことなどしていない」と考えていたとしてもである。

もし本意に反する言動が“悪”だというのなら、以下は全て“悪”ということになる。

・本当はマスクなど効果が無いと思っているのだが、意に反して付けるしか選択肢が無い、私の外出行動。
・本当は判で押したようなリクルートスーツなど着たくもないのだが、意に反して着るしか選択肢が無い、就活に臨む若者たち。
・本当は働きたくないのだが、意に反して働くしか選択肢が無い、サラリーマン。
・本当は仲良くしたいのだが、意に反して加担するしか選択肢が無い、クラスのいじめ。

※ 他にも例文を作ってみよう、「本当は〇〇だが、意に反して〇〇しか選択肢が無い、〇〇。」

以上の事情があるため、転売ヤーは隠れてコソコソ行動することになる。

[4].どこにも“悪”は無く、あるのは合理的選択だけだった。

以上、「もし自分が○○だったら」と想像すれば、当然の帰結であったと分かる。
どこにも“悪”は無かったのだ。

[5].その選択は最終的に、転売ヤーを利用するか、拒否するかという、消費者の行動にかかっている。

では、あなたが、私が、あるいは社会が、転売ヤーを“悪”と見なすか、そうでもないのか。
その判断は最終的に、消費者の行動にかかっている。
もしあなたや私の大多数が転売ヤーを利用したなら、それだけ転売ヤーに正義を与えたことになる。
あるいは転売ヤーを利用せず、“良心的な”ショップだけを利用したなら、ショップが正義となる。
答は、私自身、あなた自身の行動で示すことになるわけだ。

[おまけ].マスクは手作りできる。

で、私の行動なのだが、転売ヤーからもショップからも購入せず、手作りでしのぐことにした。
手ぬぐいとゴム紐でマスクができた。

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手作りマスク