頭の疲れと体の疲れは違う

言い訳せねばなるまい。
ここ2年ほど、ほとんどブログを書いていない。
その割には、青森に行ったとか、大阪に行ったとか、ロングライドのことばかりが記事に上がる。
これは、きっと書き手がすっかり物理数学に興味を失い、もっぱら体を鍛えることにシフトしたのではないか・・・
ここで冒頭の言い訳が出てくる。

 『頭の疲れと、体の疲れは違う。』

そうなのだ。頭と体とでは、疲労が溜まるところが全く別なのだ。
この事実を、それとなく認識している人もいるし、全く意に介さない人もいるかもしれない。
ただ、私自身について言えば、頭と体は、はっきり明確に分かれている。
頭の疲れに属するのは、
 ブログ、仕事、プログラミング、データ処理、物理、数学
などである。
体の疲れに属するのは、
 ロングライド、ジョギング、水泳、荷物運搬などの肉体労働
などである。

疲労感からすると、体の疲れは“カラッとした疲れ”である。
疲れの中にも爽快感があり、一晩熟睡すれば、明日の活力につながる。
一方、頭の疲れは“じめじめした疲れ”である。
長く後を引き、どこか心を削られたような感覚が残る。

問題なのは、頭の疲れに「仕事」が入っていることである。
ブログだったら嫌なら書かなければ済むのだが、仕事はそうもいかない。
かくしてこの2年余りというもの、私の中には“じめじめした疲れ”が溜まりっぱなしである。
もうグダグダの、ベッチョンベッチョンである。
それだけなら、ただの疲れたサラリーマンで終わるのだが、この先に私のちょっとした発見がある。

 『どんなに頭が疲れていても、体はあまり疲れていない。』

頭は疲労困憊だが、体は元気。
そういう状態が、現代サラリーマンにはとても多い。
およそ1日パソコンの前に座っている(ことが多い)のだから、考えてみれば当然である。
それがどうした、と思われるかもしれないが、
このことを本当に体で分かっているかどうかで、当人の健康状態は180度変わる。
どう変わるのか。
どんなに頭が疲れた状態からでも、走り出せるようになる。
次に体の疲れに属する行動をとっても、何の問題も無いことを知っているからである。

実際、とことん頭が疲れると、次のアクションを起こすことは非常に難しい。
普通であれば、そのまま横たわって、死んだように眠るのがせいぜいであろう。
しかし、「頭が疲れる -> 体は疲れていない -> 休養・睡眠」を繰り返したら、どうなるか。
早い話、メタボになる。これも当然である。
当然でありながら、なぜ、次のアクションが起こせないのか。
ここで普通は、「当人の意志の力が弱いから」だとあきらめ、納得しているのではないか。
それが違うのだ。意志の力は関係ない。
ただ、「ここから体を使っても大丈夫だ」ということを、習慣的に知っているかどうかだけの違いなのだ。

自慢めいて申し訳ないが、私の体の方は現在、すこぶる健康である。
まあ、自転車で500km走っても問題ないのだから、多少は納得してもらえるだろう。
で、それには何かすごい秘訣があるのか。
ある。
最大の秘訣は 〜 実は秘密でも何でもなくて、当たり前のことなのだが、
「頭がとことん疲れたとき、それでも体は動く」という事実を会得することなのである。
繰り返すが、意志の力は関係ない。
いや、最初の2,3回は意志の力が必要かもしれないが、それを越えれば会得する。
体は動く。
嘘だと思うなら、やってみろ。

以上で言いたかったメッセージは終わりなのだが、なお幾つか言い足りなかったことがあるので、以下に付け加えておく。

●「体が元気であれば、頭も元気」は誤解

「体が元気であれば、頭も元気なはず」というのは誤解である。
「楽しくスポーツできる体力があるのだから、当然、それだけ仕事もこなせる余力があるはずでしょう」
という言明は、実情に即していない。
頭の疲れ=仕事のキャパシティは、体の疲れに関係なく一定なのである。
この誤解は、上司が部下を責める嫌味というより、
むしろ生真面目な性格の人が自分自身を責める際に頻出するように思う。
つまり、
 「好きなことはできるのに、嫌いなことは気が進まないだけではないか、」
 「ただのワガママではないか、」
と、自らを責めてしまうことである。

私も当初はそのように考えていた。
頭が疲れ切ってなお、残る仕事を持ち帰ったとき、
あるいは週末に、為さねばならない作業が溜まっていたとき、
やはり体のことはそっちのけで、机に向かわなければならない、と考える。
その結果、どうなるか。
確かに机に向かった時間は長かったのだが、その割に、片付く仕事は微々たるものにしかならない。
結局、頭が疲れて効率が上がらない時間中、クヨクヨして過ごすだけなのだ。
試しに、どれほど机に向かったか、その間どれだけの仕事が片付いたかを記録してみると良い。
私の得た結論は、
 「頭が疲れたら、どれほど机に向かってもムダ」
であった。
この発見以来、効率の悪い時間をクヨクヨ過ごすのは一切止めて、さっさとリフレッシュすることにした。
たとえば、5kmのジョギングであれば30分かそこらで終わる。
では、その30分を詰めて机に向かったら、どれほど仕事が進むのか、という話である。
仮に30分間ジョギングに出たとすると、その間、頭は休みがとれるわけで、
行き詰まったとき、この“頭の30分休憩”が案外重要な意味を持つ。
少なくとも、効率の悪い時間をクヨクヨ過ごすよりはずっとマシになる。

これに付随して言えるのは、「忙しくて時間が無い」という人の大半は、
実は物理的に時間が足りないのではなく、頭の疲れが限界に来ているのだ、ということである。
一度頭が限界に達すると、そこからいくら多くの時間を注いでも、全て無駄になる。
かくして貴重な時間を、むざむざと食いつぶしているのである。
いわゆる時間の使い方の上手い人、勉強と部活が両立できるような人は、
このことを悟り、必要以上に頭を限界にまで追い込まないのだと思う。

● 頭は空っぽが良い

ずいぶん以前、水泳のコーチからこんな話を聞いたことがある。
「水泳では、余計に脳を使わないのが最も良い。
 人間の脳は、酸素の1/5を消費している。
 しかも脳は、体内でも最も優先的に酸素とエネルギーが回される器官である。
 何も考えなければ、この酸素とエネルギーを、体に回すことができる。」
これがどれ程信憑性のある話かどうか定かではないが、私はなるほどそうかと納得した。
以来、体を使うときにはなるべく脳に酸素を送らないよう、できるだけ考えないよう、心がけることにした。
この心がけが功を奏したおかげか、体を使っているときは、頭を一切使わない習慣を身につけた。

ここでロングライド(自転車)の話となるのだが、
「ときに24時間以上もサドルの上に居て、その間いったい何を考えているのか」
と聞かれることがある。
私の場合、「何も考えていない」
本当に、何も考えていないんだなぁ・・・これが。
恐ろしいほど、頭が空っぽに近い。
その結果わかったのは、頭を空っぽにすると、頭の疲れには効果覿面ということだ。
何せ頭を使っていないのだから、休まるはずである。
(体の使い方には、頭を空っぽにできるものと、できないものがあると思う。
できるものとしては、トライアスロン3種目=水泳、自転車、ランニングがおすすめだ。)
果たして酸素消費がカットされて、速くなったかどうかは定かではない。
たぶん、何も考えない方が速く走れるような気がするのだが、それすらも考えていない。

● ボトル1本ルール

では、どうしたら疲れを最小限にとどめ、効率的に頭や体を使うことができるのか。
私の答は「ボトル1本ルール」である。

 『ボトル1本が無くなったら休憩する。』

これは、やはりロングライドから身につけた経験則である。
長時間自転車に乗って、できるだけ効率的に進むことを考えたとき、
どれほど休憩を入れるかが重要なファクターとなる。
乗りっぱなしだと疲労が蓄積し、速度が落ちてくる。
休憩を入れれば回復するが、入れすぎると休憩そのものの時間が無駄となる。
いかに適度に休憩を入れるか、という最適化の問題なのだが、
その答が私の場合、「ボトル1本が無くなる距離」だった。
ボトルとは水筒のことで、私の場合は750ml、距離にして約50〜80km程度となる。
ただし、暑さ寒さなどの状況に応じて距離は変わってくる。

体の疲れは、負荷に対して正確に比例してはいない。
とあるところに境界がある。
境界を越えなければ、そこからの回復は早く、
いったん境界を越えてしまうと、そこからの回復は困難となる。
であれば、
 ・境界の位置を、自分なりに把握する、
 ・境界のギリギリ手前で休憩を入れる、
これが最適な休憩方法ということになる。

特に頑張り屋さんは、この境界を越えてしまうことが多いように思う。
もう少しいける、もう少しいける、、、と力んでいるうちに、いつの間にか境界を越えてしまうのだ。
それゆえ、“ボトル”といった、適当な目安が役に立つ。
感覚的には腹八分目くらい、少し早めの休憩くらいがちょうど良い。

もう1つ、休憩で重要なのは長く休み過ぎないことである。
ロングライドの場合、せいぜい5分。
10分以上は長すぎる。
体が冷え切る前に出発する。
これは登山の休憩などでも、よく言われることである。

● まとめ

以上、「ボトル1本ルール」は体の疲れについてだったが、ほぼ同じことが頭の疲れにも当てはまる。

・頭の疲れと、体の疲れは違う。
・頭が疲れた状態からでも、体は動く。
・頭を空にして体を動かせば、頭は適度に回復できる。
・境界を越えない。もう少しいける、と感じた手前で休む。
・休みは短めに。冷え切らないうちに再スタートする。

改めて列挙すると、何ら目新しいこともない、当然のルールばかりだ。
ただ、疲労の蓄積は、この当然のルールを知っているかどうかではなく、守れるかどうかにかかっている。
例えば、
 「徹夜でガーッとやれば、何とかなるでしょ。」
というのは、当然のルールとしてはいただけない。
そもそも徹夜という状況に追い込まれること自体が負けとも言える。

してみれば、真の敵は当然のルールそのものにあるのではなく、
むしろ「当然のルールが守れるような状況に自らを置くこと」にある。
これが最も難しいことは、重々承知している。
それでも、本当に疲労の泥沼から抜け出したいなら、最終的には
「ルールが守れる状況に自らを持って行く」他に無いかと思うのである。