電磁気学は間違っていた?!〜 新・電子論

※ 以下の文章はパロディです。不快に思う人は読まないでね〜

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今日の我々にとって、電気は生活の一部である。
改めて身の回りを見回しても、電灯、テレビ、携帯電話、デジタル家電から電子ゲームに至るまで、エレクトロニクスなくして我々の生活はあり得ない。


ところが、エレクトロニクスの基盤を支えているはずの電磁気学は、基本的な部分に大きな間違いを抱えている。
しかもこのことは、一般にはあまり知られていないように見受けられる。
そこで、現代物理学が抱える間違いを白日の下に晒け出し、正しい電磁気学のあり方を示すのが、この小論の目的である。


まずは小学校の理科の問題から。
  電池に豆電球をつないだとき、電気はどちらの向きに流れるでしょうか?
答えは、プラスからマイナスに向けて、である。
ところが、これが高校生になって、
  陰極管の中で、電子はどちらの向きに向かって飛ぶか?
答えは、マイナスからプラスに向けて、となる。


いつの間にか、答が正反対になっている。
一体これはどうしたことか。


  電流はプラスからマイナスに流れるのだが、電子はその逆に、マイナスからプラスに向かって流れる。


これが物理学の用意した回答である。


常識的に考えて、このような詭弁にいったい誰が納得するというのだろうか。
どちらに向かって流れるか、などということは、基本中の基本ではないか。
それほど難しい話でもあるまい。
なぜこんな基本的なところに、混迷極まりない詭弁が入っているのか。


これには訳がある。
話は電気というものが発見された当初に遡る。
今日に通じる電気は、ガルバーニのカエルの足の実験によって発見された。
解剖中のカエルの足に2種類の異なる金属を接すると、筋肉が痙攣する。
これが元になって、ボルタの電池が発明された。
電池が発明された当時は、電子という実体は明らかではなかった。
もちろん、どっちの向きに流れるか、などということは皆目わからない。
そこで、電池の2つの極に、仮にプラス極、マイナス極と名付けておいたのである。
ところがその後、クルックス管によって陰極線の挙動が明らかになった。
クルックス管の中で、電子は当初想像しているのと逆の向きに、マイナス極からプラス極に向かって流れていたのである。


さて、困ったことになった。
ここで「思い違いでした。電流の流れる向きは、実は逆だったのです」と、素直に過ちを認めていれば、何も混乱は生じなかったであろう。
ところが学者たるもの、意地でも間違いを公言したくはなかったのであろう。
1つの詭弁に思い至ったのである。


「電子をマイナスということにしてしまえ。そうすれば、マイナスxマイナス=プラスだから、間違えを正さずに済むだろう。」


なんとも見え透いた屁理屈ではないか。
今日までに至る混乱の種は、学者連中の片意地なまでのプライドによって蒔かれたものだったのである。


それでは、マイナスxマイナスはなぜプラスになるのだろうか。
そんなのあたりまえ、と思う人は、悪しき教育によって頭が固くなっているのに違いない。
今はあたりまえと思っている人でも、最初に聞かされたときには素直に疑問が生じていたのではなかろうか。
そういう素朴な疑念は、たいていの場合正しい。
人が最期に拠り所とするのは、雑念にとらわれない素朴な直感なのだから、もっと大切にしてよいものと思う。


さて、マイナスxマイナスはなぜプラスになるのか?
その答えは、
「そんなもの何であってもかまわないが、数学者達がそのようにでっち上げた」
ということなのである。


そもそも「マイナスの数」などというものは実在しない。
マイナス5個のリンゴを目の前に並べることができるだろうか。
虚数という数も実在しなのだが、それと同様に、マイナスの数も実在しないのである。
温度計にはマイナス10度という目盛りがあるではないか、と反論されるかもしれないが、これも間違いである。
本当の温度は、絶対零度を規準としたケルビン温度であり、マイナス10度ではなくプラス263.15度というのが正しい。


マイナスの数などというものは、現実の世界には実在しない、想像の産物に過ぎないのである。
だから「マイナスxマイナス」というのも、もともとありもしないことについての議論なのだ。
その答えは「針の上に踊る天使」のごとく、理屈の付け方によってどうにでもなる。
決めた者勝ちなのだ。
昔の数学者たちが勝手に
  マイナスxマイナス=プラス
というルールを決めつけてしまった。
それを「唯一絶対の真理」として、今でも学校で教えている。
ただそれだけのことに過ぎない。


それでは、数学という虚構ではなく、物理という実在についてはどうなっているのだろうか。
電気について事実のみを述べれば、単に2つの性質をもった粒子がある、ということに過ぎない。
ご存じのように、粒子の持つ電気的な性質には2種類ある。
同種の粒子は反発し、異種の粒子は引き合う。
実験によって確かめられるのは、そのような性質を持った2種類の粒子がある、ということだけだ。
ちょうど人間に男性と女性があるように、物質を構成する粒子にも2つの属性がある。
人間について、比喩的に陽性、陰性ということはある。
でも当然のことながら、本当の意味で、男がプラスで女がマイナスなのではない。
女性x女性で何が生じるか、という問いは全くのナンセンスであろう。
ならば、なぜ電子ではマイナスxマイナスが認められるのだろうか。
ここにごまかしがある。
単なる「2種類の性質」を「プラスとマイナス」という数学的な虚構の上に、何のためらいもなく投影してもよいのだろうか。
このごまかしは、昔の学者達が犯した間違いを認めたくないがために、今日に至るまで続いているのである。
実際、同じ電磁気学の中にあって、磁石の方はS極、N極と呼んでる。
決してプラス極、マイナス極とは呼ばないだろう。
磁石の方は電気と違って、途中で向きが反転するような詭弁が入らなかったのだ。
それゆえ、ごく自然に数学とは何の関係もないS極、N極という名前で呼んでいるわけだ。


このように、最も基本的な部分から間違っている電磁気学は、残る全てが疑わしい。
電磁気学に基礎を置いた相対性理論も、間違いに間違いを重ねた砂上の楼閣である。
現実は簡単に曲げることはできないが、数学の決め事はいくらでも曲げることができる。
曲がっているのは時空間ではない。
数学者と物理学者が、よってたかって作り上げた理論が曲がっているのだ。


なぜ「頭が良いはずの」物理学者や数学者が、こんな初歩的な間違いに気付かないのだろうか。
その理由を端的に言えば、数学と物理の馴れ合いにある。


大体において、数学者とか物理学者と呼ばれている人種は、お勉強ばかりがイビツにできる頭でっかちな変人である。
自分が通っている(あるいは通っていた)学校のことを思い起こしてみてほしい。
そういった頭でっかちの変人が、大抵どこのクラスにも1人や2人はいることだろう。
ところが、こういう頭でっかちが1人ぼっちか、2人以上かには大きな違いがある。
もしクラスに1人だけだったなら、単なる変人扱いで、無視されるだけだったろう。
もちろんクラスの女子にもてないことは言うまでもないのだが。
ところが、2人いたとしたらどうかなるか。
恐らく2人は理解しあえる仲の良い友人となり、お互いの傷を嘗め合うように、閉じた世界を作り上げることだろう。
この2人とは他でもない、数学君と物理君のことなのだ。
その姿は、秋葉原に集まるヲタクの世界を思い起こさせるものがある。
実のところ、選んだテーマが多少違うというだけで、ヲタクと現代科学との間に本質的な差異は無い。
一部の仲良し同士の間でいびつな発展を遂げたもの、これが現代科学の姿に他ならない。


実のところこの問題の影響は、決して小さなものではない。
現代文明が「間違った科学」に蝕まれている、その根本的な原因はこの付近にあるのだから。
正に、現代文明の病巣と言っても過言ではあるまい。
最近の社会の乱れ、子供が非行に走るのも、大人が金の亡者になるのも、女性が慎みを失ったのも、
つきつめれば現代文明を支える科学に根本的な責任がある。
一部の議論好きな連中だけの、重箱の隅をつつくような小さな問題だけでは済まされないのだ。


それでは、本来あるべき「正しい科学」とは如何なるものか。
「マイナスに荷電している電子」という虚像を捨てたとして、我々は電流というものを、正しくはどのように理解すべきか。
このヒントは、先の男性、女性という比喩の中にある。
私はここに、新しい理論を提唱する。
それは「電子進化論」と呼ぶべきものである。


男性と女性はどのようにして生じたのか。
生物の進化の足跡をたどってみると、太古の単細胞生物に性の別は無かった。
単性で、分裂などによって増えていたのである。
やがて単細胞生物が進化すると、遺伝子の一部を互いに交換し合うものが現れた。
緑藻類の一種であるクラミドモナスは、同型接合によって生殖を行う。
オス、メスの違いは無いが、遺伝子の交換は行う、ということである。
ゾウリムシは核の一部を切り離して、別の個体と交換する。
ゾウリムシは分裂でも増えるのだが、遺伝子の交換を全く行わないと、
数世代(最大700世代程度)分裂を繰り返した後に絶滅してしまう。
こういった生物は、オス、メス分化の前段階で留まったものと考えられる。
さらに時代を下ると、単細胞生物は生き残りをかけて2つの戦略を採るようになった。
1つは栄養をたくさん蓄えて大きくなろうとする戦略。
もう1つは運動能力を高めて、素早く動き回ろうとする戦略である。
前者は明らかに生き残りに有利である。
後者は単独では生き残りに有利かどうか定かではないが、
素早く栄養豊かなパートナーを見つけ出すことによって、生き残る道を見出した。
前者がメスの始まり、後者がオスの始まりである。


オス、メスに見られるような2極化現象は、様々な局面において一般的に見受けられる。
人間社会においても、大型で鈍重な組織と、軽量で高速な組織の2タイプがうまく共存し合っている。
原子にそっくりな太陽系も、中心の巨大な太陽と、周辺を巡る小振りな惑星から成り立っている。
つまり、2極化現象とはスケールの大小によらず、至るところに見出せる普遍的な傾向なのである。
ということは、生物進化に見られたような男性と女性の分化と同様の進化が、粒子についてもあてはまるのではないだろうか。


私の提唱する「電子進化論」の概略は、次のようなものだ。
宇宙創生の頃には、電荷という性質を帯びていない、中性的な粒子だけが存在していた。
その中で、ゆらぎによってたまたま他よりも大きな粒子ができると、
大きな粒子は小さい粒子よりも生き残りに有利であるが故に、その数を増した。
ところが、比較的小さな粒子の方も、大きな粒子のパートナーとなることによって、生き残りの道を見出した。
かくして原子という安定な形態が生まれ、同時に原子核と電子という2極化が完成したのである。


男女との対比で言えば、大きな原子核(陽子)がメス、小さな電子がオス、というのが妥当であろう。
これは現在の物理学で言うところのプラス、マイナスとは正反対だが、直感にはよく適合する。
男は外向的であって、外に出て働く。
女は内向的であって、家を守る。
物質の化学的性質、外面的な性質は、男である電子の挙動によって特徴付けられる。
女は普段表面に出ることは無いが、本当に怒らせると爆発する。
これが核爆発である。


男の粒子、女の粒子、という表現は、プラス、マイナスといった無味乾燥な表現よりは、豊かな想像力をかき立てる人間的な理論だと思うのだが、いかがであろうか。


ところで、現代社会を支える電子産業、エレクトロニクスは全て電磁気学に支えられていると言われている。
それが全て間違っている、ということがあり得るのだろうか?
ところが、これが大いにあり得るのだ。


今の日本を本当に支えているのは、先の学校のクラスのたとえで言えば、
お勉強はそこそこだが、手先が器用で図工が得意、といったタイプである。
実は、こういったタイプの人が、頭でっかちの理論にだまされることなく、
地に着いた「体験に基づく知恵と技術」で電子産業を支えているのだ。


電子がどちらに動いているか知らなくても、電池と豆電球とモーターは扱える。
マックスウェルの方程式なんか解けなくても、電子工作は十分にできる。
夏休みの工作に、方程式はいらない。
実際に手を動かして何かを作り上げた人であれば、こんなことは自明の理であろう。
大切なのは、理論よりも、上手なハンダ付けの技術とか、ヤスリのかけ方とか、そういった手に付いた技なのである。
電子工作が大きくなって、舞台が近代的な工場に移ったとしても、その本質は何ら変わることはない。
現場に行けば、理論なんて無くったって構わない。
むしろ無い方が、先入観に捕らわれないだけ良い。


あなたは自転車に乗れるだろうか。
もしYesであったなら、次の質問。
あなたは自転車のハミルトニアンを記述できるだろうか。
大半の人はNoなのではないか。
もしハミルトニアンを記述できなければ自転車に乗れないのであれば、
世の中の大半の人にとって自転車は無用の長物となるであろう。


現代物理の理論とは、いわば理論のための理論であって、一部の人間たちの知的ゲームに過ぎない。
そして、実のところ無くても全く困らない。
しかし困ったことに、物理、数学の理論なぞ無用の長物であると、
あからさまに口に出すと、周囲から低脳呼ばわりされてしまう。
日本の社会では、なぜか数学が知能の物差し、ひいては人間の物差しになっているという嘆かわしい実情がある。
そして、この実情こそが、本当に手に汗して働く人の評価を不当に下げている。
その一方で、口先で理屈ばかりをこねて、自らは全く生産的な活動を行わない無価値な人の評価を不当に上げているのだ。


物理や数学の理論など何の役にも立たないと、内心思っている人は案外多いのではないか。
その疑念は正しい。
電磁気学など、しょせんは裸の王様に過ぎない。
しかし、裸の王様と知りつつも、それに踊らされている臣民はさらにこっけいであろう。
王様のパレードに躍らされないためにはどうすべきか。
そのためには、現代物理の犯した過ちを根本から問い正し、人として正しい道を歩むべきなのだ。

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以上はもちろん、いわゆる1つのトンデモというやつです。
トンデモの有すべき要素はひとおおり詰め込んでみました。
ま・さ・か、真に受けてませんよね!?


物理や数学に携わっている方、読んでも腹を立てないように。
実際、上のような主張は多かれ少なかれ、一部ではマジメに語られているのです。
もし上のような主張を強固に為されたら、あなたはどのように説得or反論しますか?


なぜこんなものを書いたか、いいわけを少しばかり。
このサイトは、内容からしてまずトンデモの誹りをまぬがれないでしょう。
であれば、ここは1つ自らが思い切りトンデモな気持ちになって書いてみたらどうなるか。
試してみたのです。
それも、誰もがわかるような常識的な例によって。
ちょこっちょこっと書き始めたつもりが、いつの間にかのりにのって、一気に完成してしまった。
あまりにも出来が良かった(?!)ので、ここに公開することにしたのです。


話の大元になっている
「電流はプラスからマイナスに流れるが、電子はマイナスからプラスに移動する」
というくだりは「間違い」ではありません。
なので、あえて「間違いか、正しいか」を問えば、「正しい」ということになるのでしょうか。
だからといって、上の主張全体が「正しい」かどうかと問えば、明らかに「間違い」です。


科学の世界には、今更目くじらを立てるほどのこともないので、
このままでいきましょうってお話が、探せば幾つもあるかと思います。
さしあたって、私が思いつくのは次の2分野かな。
  量子論の解釈: シュレ猫とか、多世界とか。
  現代数学の基礎: 集合、位相、ゲーデルとか。
上の2つについて、書けと言われれば、私は同レベルのトンデモ論文をでっちあげることができます。
やりませんけど。


よくやり玉に挙がる相対性理論は、私から見れば、完璧なレベルにあります。
どうして皆さん揚げ足取りの余地の無い相対論に挑戦(?!)するのだろうか。
どうせ挑む(?!)なら量子論にしたら?


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