頭の良し悪しは存在しない

昔の世の中には「聖なるもの、俗なるもの」という概念があって、幅を利かしていました。
金は聖なる金属、鉛は俗なる金属。
人体を通り抜けた物体は「俗なる物体」。
よくわからないけど、祝福を受けた水とかは「聖水」になるのかな。
もちろん現代社会においても、聖なるもの、俗なるものを信じている方もおられるので、
ここで頭ごなしに聖俗を否定して宗教戦争するつもりはありません。
もし聖俗が無かったら、「聖人のような」とか、「俗世間には」といった表現が一切使えなくなってしまいますからね。
実際、聖俗という概念は直感的には分かりやすいと思います。
自称「俺は科学的だ」という人であっても、聖俗の概念を全く持たない人は希でしょう。

(健康な人の)おしっこが汚い、という概念は、どちらかといえば非科学的です。
「ばいきんのことを考えると、人間のおしっこほど、きれいなものはない。」
これは「心の底をのぞいたら」(なだいなだ) という本にあった名言です。
試しに健康な人のおしっこをコップにとって
「科学的には無害だから、飲んでみろ」
と勧められたら、飲めるか。
たとえ意地を張って飲んだとしても、とっても嫌な気持ちになるでしょう。
なので、どんなに「科学的な人」であっても、聖俗の概念から完全に逃れているわけではないのです。※1
考えてみれば、おならの臭いをいやがるなんて、全く非科学的ではありませんか。※2
科学的に言えば、タバコの煙を排出する行為は、人前でおならをするよりよっぽど恥ずかしいぞ。

ということで、聖俗の概念は私たちの心の奥深くに根ざしている、とても「人間らしい」性質です。
その一方で、聖俗が非科学的であることも、現在では認めてよいことだと思います。
聖なるものの定義は何か? と問われれば答に窮するだろうし、「聖俗メーター」という測定器もありません。
金と鉛の違いは単に原子番号の差異に過ぎず、金が偉くて鉛が卑しい、なんてことは全く非科学的な考え方です。

さて、ここまで前振りすれば、わかるでしょ。
頭が良い、悪い、という概念も、聖俗と同じで、科学的には存在しません。
頭が良いの定義は何か? と問われれば答に窮するだろうし、「頭の良し悪しメーター」という測定器もありません。
頭が良いと言われている人と、そうでない人との違いは単に特性の差異に過ぎず、
Aさんが偉くてBさんが卑しい、なんてことは全く非科学的な考え方です。
中世の時代に聖俗で振り回されていた人たちのことを、現代から振り返って見たら、どう思いますか?
未来社会から現在を振り返って見たら、きっとこう言われることでしょう。
「当時の人間たちは、頭の良し悪しという概念を素朴に信じていたらしい。実に非合理的な見解だ。」
頭の良し悪しっていうのは、もう現代社会の呪縛みたいなもので、
これについて何らかのコンプレックスを持たない人は、ほとんどいないと思うのですよ。
・学校でも、会社でも、頭の良し悪しで評価が下される。
・他人をまっさきにバカか利口かで判断する。
・自分の子供の頭が良いか悪いかで、一喜一憂する。
・何よりも、自分の頭が良いか悪いかについて、思い悩む。
これらは全て、存在しない幻が引き起こした行動なのであって、悩むだけ時間の無駄です。

ここでちょっぴり、数学っぽい悪戯をしてみましょう。
問題:次の連立方程式を解け
  y = 2x
  2y = 4x + 1
解答:
この方程式の答を
  x = a
  y = b
と置く。すると、
  b = 2a     ・・・(1)
  2b = 4a + 1   ・・・(2)
である。
(2)式から(1)式を引くと、
  b = 2a + 1 ・・・(3)
となる。この(1)式と(3)式を比べてみると、
  b = 2a ・・・(1)
  b = 2a + 1 ・・・(3)
さらに (3)式から(1)式を引くと、
  0 = 1
ってことで、実は 0 と 1 は等しかったのだ。
ということは、両辺に 1 を足せば 1 = 2 であり、
さらに 1 を足せば 2 = 3 であり、、、
つまり、あらゆる自然数は等しい。
ということは、そもそも最初の方程式の答は、何でもよかったのである。

んな、ばかな。
では、上の解答のどこがおかしかったのか。
この方程式の答は、そもそも存在しません。
それを存在するかのように
「この方程式の答を
  x = a
  y = b
と置く。」
としたところが間違いの元凶です。
存在しない答を、あたかも存在するがごとく持ち込むことによって、
どんなむちゃくちゃな結果も論証できてしまうんです。

人の死は、誰かの呪いによって引き起こされる。
そのように信じている社会が、世界の何処かにあるのだそうです。
(確か、ハックスレイの書いたものだったと記憶しているのですが。)
なので、その社会では人が死ぬと、真っ先に「誰が彼を呪い殺したか」が問題となるのだそうです。
もし本当にそうだったなら、大変ですよ。
いつ、誰に呪われるかわからないので、いつでも戦々恐々としていなければならない。
それでは「科学的な現代人」から見て、この呪術社会のことをどう思いますか?
「そんなのは非科学的だ、もともと呪いなんてものは無いんだよ。」
きっと多くの人が、そう思うことでしょう。
少なくとも私は、誰かが呪い殺された現場を見たことがないので、呪術を信じてはいません。
しかし「科学的な現代人」は、果たして呪術を原始的な迷信だと切り捨てることができるでしょうか。
呪術を鼻で笑って済ませるような人が、その一方で、頭の善し悪しを素朴に信じているとは、これいかに。
つまるところ、現代人であっても「科学的か、非科学的か」によって物事を切り分けているわけではないのです。
その社会にどっぷり浸かっている人にとって、科学的に存在しない通念を認めるのは、ほとんど不可能に近いと思います。
真に科学的で、頭の善し悪しを全く認めない人というのは、「バカ」呼ばわりされても全く腹を立てない人のことです。
・・・ほとんど不可能だということが、わかりますよね。
こんなこと書いている私自身でさえ、頭の善し悪しという呪縛からは完全に抜け出せていないし、
たぶん一生逃れられそうにもありません。
それでも、聖俗や呪術が少しずつ過去に押し流されていったように、
100年後、200年後の世界では、頭の善し悪しという概念は過去の亡霊になり果てているはず。

むしろ、
「なぜ人間は、在りもしない聖俗や、頭の善し悪し、呪い、といった概念を作り上げることができるのか?」
という方が、ずっと不思議で興味深い問題だと思います。
コンピューターや機械を駆使して、「聖俗判定プログラム」や「頭の良し悪しメーター」を作れますか?
きっとそれができるのは、100年後、200年後の、頭の善し悪しから開放された後のことだと思います。

※1:元の本では、聖俗という言い方ではなく、確か「迷信を信じるか」といった言い方をされていたと思います。
手元に本がないので、未確認、すまん。
その後、毎朝自分のおしっこを飲むという「おしっこ健康法」が出現したり、
愛する人のおしっこなら喜んで飲む人がいたり(?!)するので、
さすがのなだいなださんも世の中の変化にビックリ?!


※2:臭いおならを嫌がるのは、たぶん当人が不健康であることを表すシグナルだからだと思うのですが。。。


※ 7/6 追記 「頭がよい」とは何なのか?
果たして数学の才能は、原始時代にも有用だったのか?

-- 心は量子で語れるか {ペンローズブルーバックス} より引用.