白紙に近い答案はバカなのか

どうやら、そうでも無いらしい。
これは私にとって驚きの発見だった。
もし「白紙に近い答案=バカ」が成立しないのであれば、
そもそも記述式テストというものは成り立たないのではないか。
より正確に言うと、
 ・充実した答案 => 知識を持ち合わせている
は正しい。しかし、この逆である、
 ・スカスカの答案 => 知識を持ち合わせていない
は、必ずしも真ではない。
なので、記述式テストというものは半分までしか成立しない。
これを当然だと思う人と、発見だと思う人がいる。
私は後者であった。なぜかと言うと、
「知識を持っていれば、それを紙の上に落とせるのは当然」
と思っていたからである。

縁あって、私はテストを作って、採点する立場にある。
掛け持ちの非常勤ではあるが、とにかく先生と呼ばれるものの端くれである。
その記述式のテストやレポートで、時折、ほんの少ししか書かれていない答案を見かける。
わずか2〜3行程度の箇条書き。それらを繋いでも、たいした文脈は浮かんでこない。
当然ながら、そういった答案にあまり良い点は付けられない。
しかし、スカスカの答案を書いた学生は、本当に頭の中身までスカスカなのだろうか。
あるとき、試しに直接口頭で質問してみた。
すると予想に反して、口頭では多くの内容をスラスラと答えられるのである。
「それだけ喋れるのなら、なぜ、書かないのか。
 今、口で言ったことを、そのまま紙の上に落とし込むだけではないか。」
そう思って、はたと気づいた。
喋れるけれど、書けない学生が居るのである。
つまりこの学生は、頭の中に知識がありながら、それを文章化することができない。
・・・以上が私の発見である。
これまで生を受けて数十年というもの、私は頭の中に知識があれば、
それを紙の上に落とし込めるのは当然だと考えていた。
と言うより、ここに何らかの苦労やギャップが存在していようとは、思ってもみなかった。
息を吸うように、自然にできる所作であろうと思っていたのである。

私はこれまで、知識 => 文章化の間に苦労を感じたことが無い。
文章が書けないということは、即ち元になる知識やアイデアが無いということであり、
逆に、知識やアイデアありさえすれば、必ず文章に落とし込むことができる。
そういうものだと思っていた。
別に自慢している訳ではない。
私は過去に作文コンクールで入賞したことも無ければ、立派な文芸作品を書いたことも無い。
国語の成績が取り立てて良かったわけでもない。
考えてみれば不思議ではないか。
知識があって、日本語が使えるのであれば、なぜ、それが文章にならないのか。
何か特別な名文を書け、と言っているのではない。
もっと低レベルの、誰にでもできることを言っているのである。
もちろん、文を書くにも上手い下手はあるし、良い文章を書くには、相応の力量が要求される。
そんな力量を要求しているのではなく、どんなに下手くそでも構わないから、
とにかく考えを文章に落とせと要求しているのである。
それなら、誰にでもできるはずではないか。

よく考えてみると、文章以外のことがらは、形にするのに何らかの才能や努力を伴う。
目で見た通りに描くには画才が要るだろうし、聞いた通りに奏でるには音楽の才能が必要だろう。
文章もそれらと同じで、何らかの才能ないし訓練が必要だったのである。
そんなことは、当たり前なのだろうか。
私が発見したのは、
・知識を自然に文章に落とし込める人、つまり「喋れる=書ける」タイプの人と、
・そうではなく、文章化に労力を要する人、つまり「喋れる≠書ける」タイプの人の、
2種類がいる、ということである。
だから、この事実を発見と思う人と、当たり前と思う人がいるのである。
そして、一部の人にとっての当たり前の事実を、なぜ今さら取り上げたのかというと、
どうやら「先生」と呼ばれる人たちは、文章化に何の苦労もしないタイプが大多数なのではないか、
と思い至ったからである。だからこそ「先生」なのである。
ところが、そういうタイプの人たちが先生であるとすると、1つ困った弊害が生じる。
それが、冒頭に挙げた「白紙に近い答案=バカ」という思い込みである。
先生は自分がそうであるから、答案に書けないということは、即ち知識の欠如と考える。
実際には、
・本当に知識が無くて書けない場合と、
・知識はあるのだが文章化できない場合の、
2つがある。
そしてこの2つの違いは、記述式テストだけでは分からない。
(ただし作文の授業は、文章化の知識それ自体を問うので除外する)

もう1つ、文章化に労力を要する人たちは、たったそれだけのことで、
とてつもなく不利な人生を送っているのではないか、ということである。
端的に言って「書けない=バカ」である。
そして周囲がバカだバカだとはやし立てているうちに、本当にバカになってしまう。
当人にとっては切実な問題なのかもしれないが、実のところ文章化などという技術は、
本当に「たったそれだけのこと」に過ぎない。
私が苦労していないから、そう言っているのではない。
才能とか、頭の良し悪しとか、そんなことは一切関係ない。
その気になれば、3日程度でマスターできる小手先のテクニックに過ぎないのである。
たったそれだけのことで、損な人生を歩むのは、実にもったいない話ではないか。

では、3日でマスターできる文章化のテクニックとは何か。
それは、
  「型を身に着ける」
ことである。
書式、パターン、あるいはフォーマット、と言っても良い。
白紙にいきなり文章を書くのは難しいが、穴埋め問題なら比較的簡単にできる。
型を覚えていれば、文章題が、穴埋め問題に還元できるのである。

1つ、具体的な型を挙げよう。
  「Q&Aで始める」
今、あなたの読んでいるブログ記事が正にそうである。
最初に疑問、次に答を示し、それに続けて答に至る道筋を順番に提示する。
たったこれだけのことで、今日からあなたもブログを書き始めることができる。

一般的な論文・レポートの構成である、
  「目的、方法、結果、考察、結論」
というのも1つの型である。
これについては「レポートの書き方」といったキーワードで検索すれば、
関連サイトがわんさと出てくるので、詳細はそちらに譲る。
大切なのは、白紙の状態からスタートするのではなく、
白紙を型で区切った「穴埋め状態」からスタートすることである。

型を身に着ける最良の方法は、真似をすることである。
そもそも言葉の学習は、真似から始まる。
文章化に苦労していない人たちは、何のことはない、
過去に読んだ文章の型を無意識のうちに真似ているのである。
不幸にして真似る機会が無かった人は、今からでも遅くは無いので、
何か気に入った文章について「型」を意識して見直すことをお勧めする。
論文や名作文学だけでなく、ラノベにも、ミステリーにも、それぞれの型がある。
だからこそ、読めばいかにもラノベっぽいし、ミステリーっぽい。
なぜ、それらが○○っぽいのか。その理由を突き詰めること。
それぞれの型については、私が理屈を述べるよりも、対象そのものを真似た方が早い。
(あえて助言すれば、会話文や掲示板、ツイッターのような、短い文章の断片を真似ても意味が無い。
 ある程度以上の長さと筋道を持った文章を真似ること。)

残念ながら、今後も多くの先生たちは「白紙に近い答案=バカ」だと考えるだろうし、
仮に文章化が不得意な生徒がいることを知っていたとしても、
それを見分ける手段は事実上不十分なままだろう。
私は作文の先生ではないのだが、3日でできる小手先のテクニックであれば、きっと伝えることができる。
なので、可能な限り伝えることにしよう。これは私の決意表明でもある。
それでも、もしあなたが今現在文章化に苦労していて、損な人生を送っているのだとしたら、
結局のところは自らの努力で克服するしか無い。
そして、それは思ったよりもわずかな、ほんのちょっとの努力と工夫で乗り切れるのである。
私が言いたかったのは、そういうことである。
健闘を祈る。


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※ 9/30追記
たくさんのコメント&ブコメ、ありがとうございます。
予想外の反応に驚くと同時に、改めて責任の重さを実感しました。
全てのコメントについて一度にお答えできないので、以下、要点のみ追記します。

■ 型の教育不足

> 「答案/小論文を書く技術を教える科目」が小中高に無いのが不思議といえば不思議

確かに、型を学ぶ機会が日本の国語教育には少ない。
私も小中高でまともに教わったという覚えがありません。
一方、海外では型を身に着ける学習を重視する、というコメントを幾つか頂いています。
どうもこれには歴史的な理由があるようです。

* 日本の国語教育では書き方の様式を教えず、創作文を書かせませんが、それはなぜですか。
>> http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_04.html

> 「子どもが見たまま、感じたままを綴る学校作文」という唯一の型を作り上げてしまいました

では、文章の型というものを、どこで学ぶのか。
私自身のことを振り返ってみると、大学時分に書かされた「実験レポート」であったことに思い当たりました。
このレポートの書き方というものは、学校で教わって最も役に立つ事柄の1つでしょう。
 (私とて、別に先天的に型を知っていたわけではありません。単に、最初にあまり嫌がらなかった、というだけです。
  それでもレポートにはけっこう苦労した覚えがあります。)

私は運良く型を学ぶ機会に恵まれたわけですが、一般的に言って、型を教えてくれるような場所はあまり無いわけです。
あるいは大学(or専門学校)が型を教える場になるべきなのでしょう。

■ 3日の小手先では無理

大学というところは、一定水準以上の「やればできる子」たちが集まっている場所です。
だから、諸君なら3日程度でできるはず、、、と言いたいところです。

しかし上のような実情を考えると、型を全く知らない学生が居るのは何ら不思議ではなく、
そういう学生たちに「3日の小手先で乗り切れ」というのは、無理があるものと思い直しました。
私自身、昔はかなりしつこくレポートをやらされたので、どうやらその恩返し(?!)をするときがやってきたようです。

■ ディスグラフィア(書字障害)

可能性はあります。
もし本当に何らかの障害であったなら、非専門家である私が下手に足掻くべきではありません。
幸い大学には相談窓口もあるし、必要であれば専門家に要請を出すことも可能です。
私の役目は、本人に自覚が無い障害があった場合、それに気付くことです。

■ テスト

一応断わっておきますと、ペーパーテストだけで人の内面の全てが測れる、などと考えている先生は1人もいません。
さすがにこれは社会通念であろうと思います。
私が誤解していたのは「記述テスト=知識を測るもの」である、ということであり、
正しくは「記述テスト=知識+作文力を測るもの」だったということです。

■ 喋りができない人も多い

このコメントがかなり多い、ということからしても、いかに「喋れない人」が多いかが伺えます。
これには私も賛同します。
というのも、私自身どちらかと言えば喋れない、喋れるようになるのに苦労したクチだからです。
(しょせん人間は自分を物差しにして判断しがちなのです。)
喋れないのを気にする人が多いのは、現代社会がアウトプット社会であり、喋れる人にとって何かと有利だからでしょう。

 ・喋りも訓練によって能力を高めることができる。
 ・日本の教育では、あまり体系立った喋りの訓練を行っていない。
 ・一部には、先天的な障害で喋れない人がいる。

こうして挙げてみると、「書く」に対して当てはまったことが、「喋る」に対してもそっくり当てはまることに気付きました。