夢がないって不幸なのかな?

「夢が持てない世の中」、そんな言葉をよく耳にする。
単にネットやニュースを媒介しての伝聞ではなく、実際そう言った言葉を口にする人に出会うことも少なくない。
それも、苦悩と共に訴えるのではない。
実にあっけらかんと、軽〜いノリで、
「夢なんて何にもないんだよ、聞かれたときに困っちゃうな。」
と返してくる。
こんな風に書くと「近頃の若い者は・・・」という年寄りじみたセリフが口をついて出てきそうだが、実のところ夢を持たない人は最近出現した特別な人種ではない。
ずいぶん以前、私が学生だった時分にも、こんな風に言っている人がいた。
「別に長生きしたいとは思わない。適当な寿命で、適当なところで終わればそれでいいんだ。」
これは悩み相談室で出てきた言葉ではない。
ごく日常の会話で、冗談と笑いが混じった中でサラリと出てきた言葉なのだ。
語調に暗い要素はこれっぽっちも含まれていない。
こういう若者が増えているのか、昔から居続けるのかは確かめようもない。
少なくとも私の記憶の中では「昔から居続け」ていることになっている。
こういった人を見ていると、「夢が持てない=不幸」という図式は人類普遍の原理でも常識でも無かったのだと思い知らされる。
「夢を持たねばならない」という強迫観念は、単に(私を含む)一部の人間の思いこみに過ぎないのではないか。

もしユートピアが実現すれば、そこに暮らす住人は夢を追わないはずだ。
なぜなら、今住んでいる場所で既に夢が叶っているからだ。
皆、今の暮らしに満足しているのである。
社会がユートピアに近づけば近づくほど、夢を持たない人がたくさん出現するはずなのである。

今にして思えば、私の世代(あるいは私の周囲)は「夢を持ち、それに向かって全てを投げうつ生き方」が良しとされ、強いられてきたようにさえ思う。
「将来の夢は?」と聞かれたとき、「自身が好きで、熱中できるものを、不器用なまでに熱く語る」ことが模範解答とされていた。
たとえ成績が悪くとも、適正に欠けていようとも、である。
確かに「個性」と「熱い想い」は大いに結構。
ただ、その後の具体的なプランは?
よく言われるように、全員がオリンピック選手になれる訳ではない。
にもかかわらず、親、先生、世間を挙げて「熱い夢の芝居」を強要するのはいかがなものか。
夢というものは聞こえは良いが、反面、非常にリスキーな代物である。
本気でオリンピック選手を目指して、なり損ねた人達(当然そっちの方が多い)は、一体どこに行けばよいのか。
たとえオリンピックでメダルを取った選手であっても、その後の生活に保障があるわけではない、といった話をテレビで見たことがある。
夢の分岐点として、もっと身近で生々しいのは「大学院博士課程への進学」ではなかろうか。
たとえ博士号が取得できたとしても、その中で教授になれるのはごく一部だ。
その一方で、博士課程を出る頃には世間的にはつぶしが効かなくなる。
いくら大学や企業の在り方を批判したところで、この実情はすぐには変わらない。
それほどまでに大きなリスクを背負って、オリンピック選手なり博士なりを目指したところで、結果として得られるリターンはどれ程だろうか。
もちろん、ここでのリターンは金銭の問題ではなく、最終的には本人の気持といった無形物に帰されることになる。
ここで、あれほどまでに「熱い夢」を強要した世間様は、リスクに対しては一切何も負わない。
負うはずが無かろう、リスクを負うのは、つまるところ本人だけなのだ。
だとすれば、夢を持たない人に対して渋い顔をしたり、妙な説教をたれるのは筋違いというものだろう。
説教をたれる位なら、本人と共にリスクを負うべきなのだ。

ユートピアに近い」現代日本では、特に夢がなくても実質的な損失は小さい。
大きなリスクまで冒して得られるものは、その大半がメンタルなもの、悪く言えば自己満足的なものに思える。
(ここのところは夢の内容にも依るだろう。オリンピック選手と博士の例だと、そのように思える。)
「夢をあきらめる」のは、別に負けでも何でもない。
リスクとリターンから導き出される、合理的な判断である。

ここにあえて時代の変化を付け加えれば、情報が増えたことが挙げられるだろう。
人生の早い段階で、自分のポジションと手持ちのリソース、リスクとリターンの評価が正確にできるようになった。
評価が正確になればなるほど、無鉄砲に大きな夢は少なくなる。
これは一見すると寂しいことのようにも思えるが、全体として見れば、挫折という損失の少ない最適な状態に近づいたとも言える。
最初に大きな夢ばかりを置けば、当然その後に生じる挫折の量も多くなる。
各人が最初から最適な大きさの夢を持つのが、最も最適化が進んだ世の中なのだ。

それでも、どんなに世の中の最適化が進もうとも、リスクもリターンも省みない輩は、必ずや残ることだろう。
そういったクレイジーな連中には、もはや何も言うまい。
もとより、連中は何を言っても最初から聞く耳など持たないだろう。
己の欲するがままに、クレイジーな夢を追い求めるが良い。
本音を言えば、クレイジーな連中を見るのは実に清々しい。
彼らには、リスクもリターンも合理性も、一切が無いのだから。