学ぶこととは出会うこと

痛み概念の取得[id:rikunora:20080810]、気持ち悪い概念の取得[id:rikunora:20080811]に書いてきたことについて考え直した。

人は痛みに出会って、初めて「痛いこと」を学ぶ。
これは間違いないように思える。
それでは、もし痛みを全く体験しなかった人がいたとしたら、その人は「痛いこと」が全くわからないのだろうか。
あるいは、初めて痛みに出会ったとき、それがたまたま嫌悪以外の感情に結びつくことがあり得るのだろうか。
同じことは「気持ち悪い」についても言える。
どんな出会い方をしても、うにょうにょを見て「ああ、気分すっきり」という人はごく希なのではないか。
つまり、苦痛も気持ち悪いも、「答はあらかじめ自らの内に用意されていた」ように思える。
最初の出会いは、その答を発現するためのきっかけだったのである。

このことが端的に解りやすいのは、「最初に異性に出会ったとき」の感情ではないか。
これについて、密かに覚えている人は少なくないかと思う。
こっ恥ずかしい内容なので、詳細はパス。
後から考えるに、よほど異常なシチュエーションでもない限り、大半の人が「正しい答」に達する。
もしまともな出会いが無かったら、極端な話、異性が全くいない世界で暮らしたらどうなるか。
たとえそんな世界に生まれたとしても、もやもやした渇望のような感情だけは残ると思う。
見たこともない異性の像を、なぜか絵に描くことができたり、詩にしたり、きっと何らかの形で発現するだろうと思うのだ。

こうなると不思議なのは、なぜ心の発達は「出会い+発現」という形をとるのか、ということだ。
最初から本能にインプットされている知識なら、わざわざ無知の状態を経る必要はない。
生まれた時点で既に知っていてもよいではないか。
昆虫は生まれた時点で、誰からも教わることなく自らの為すべきことを知っている。
わざわざ学ぶ必要がないので、それだけ無駄な時間と危険性が少ない。
それに比べると、きっかけと出会って発現を繰り返す発達過程は、ひどく不安定で無駄なやり方に思える。

その一方で、出会いと発現には、常に感動が伴う。
ウジ虫との出会いには感動が少ないかもしれないが(これはこれで立派な感動なのだけれど)、
初恋であるとか、才能の開花であるとか、どれも心揺さぶられるように思わないか。
きっと、出会いと発現には、学び損ねる危険を冒してまでする、何か重大な価値があるのだ。
それは人の心の鍵を握る、とても重要な何かであろう。

仮に昆虫のように、生まれながらにして主要な知識を完全にインプットする学習体系が出来上がったら、どうなるか。
一見すると、社会はものすごく効率的になる。
まず学校が不要となる。
20数年間を待たずして、人間は肉体が満足に使えるようになった時点で、そのまま実社会に投入可能だ。
たぶん、現在の小学校に上がるくらいの年齢で立派な社会人になれるだろう。
それよりも大きいのは、おそらく悩みというものがほとんど無くなる。
昆虫は悩まない。(昆虫になったことがないのでわからないが、たぶん。)
能力が最初からインプットされているのであれば、何ができて、何ができないかがはっきりしている。
なので、能力に由来する類の悩み 〜 自分にこれができるだろうか、できないだろうか、と迷うことが、ほとんど無くなる。
昆虫によっては、次に子孫が残せるか、残せないかの役割ですら、生まれながらに決まっているのだ。
そして、そんなことで昆虫は悩んだりしない。
さらに、皆が自分の為すべきことをあらかじめ知っているので、社会の運営が秩序正しく、整然と行われるようになるだろう。
アリのように、ハチのように。
こうしてみると、昆虫型は良いことずくめだ。
社会を営む、という点に関しては、人間はアリやハチに劣る失敗作なのだ。

繰り返すと、「出会い+発現タイプ」の学習方法は、次の3点において「あらかじめインプットタイプ」に劣る。
・長い学習期間を要する
・学び損なうことの危険性
・社会の非効率化と混乱
これだけのペナルティを背負ってもなお、人間に至る哺乳動物の進化において、学習期間はどんどん長くなる傾向にある。
それでは問題の核心となる、発現タイプ学習の重大な価値とは一体何だろうか。
それは「可能性」の3文字に集約される。
後から出会いによって感情が意味付けられるのであれば、出会い方によって、意味に大きな幅を持たせることができる。
同じ「痛みに対する嫌悪」であっても、出会い方によって、感じ取る嫌悪の内容、強さ、意味付けは異なってくる。
学習過程が異なれば、「嫌悪」という言葉で指し示される心の中身が同一になることは、ほとんど無い。
心に幅を持たせること、これが唯一本質的に、発現タイプ学習のもたらすメリットだ。
逆に言えば、幅を持たせることができるという以外に、発現タイプ学習のメリットはほとんど見出せないように思う。

もし「痛み=>嫌悪」の数ある結合の中で、生存に最も有利な最適解があったなら、その部分は学習ではなく固定化した方が生物として有利なはずだ。
それが固定化されてないということは、少なくとも現時点では「痛み=>嫌悪」に最適解は見出されていないということだろう。
いまだ発現タイプ学習を続ける人間は、混乱する社会と悩みを背負って、未来の可能性に賭けているのだ。

独裁者のような権力を駆使して、あるいはIT技術の粋をつくして、「効率的な学習」と「効率的な社会」を作り出すことは、現在であってもそれなりに可能だろう。
すると、アリのような、ハチのような完全社会が出来上がる。
さてそれは、生物の在り方として最適な答なのだろうか。
唯一、出会い、学ぶ本能だけが、この「効率的な潮流」に異議を唱える。
現時点において、人間はまだ可能性の方に向いているのだ。
であれば、早急に最適解を求めるよりも、可能性を探索した方が人間には合っているに違いない。