人間だけが悩むのか

Q1.動物や昆虫は悩まないのか?
A1.犬は悩む。たぶんコオロギも悩む。
  ・コオロギのひきこもり
  ・その後のパブロフの犬

Q2.学習と悩みに相関はあるか?
A2.ある。
  ・インドの農村と都会

Q3.なぜ人間はこれほどまでに悩むのか?
A3.人間は未完成だから。


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1.動物や昆虫は悩まないのか?


> 昆虫は悩まない。(昆虫になったことがないのでわからないが、たぶん。)
先日のエントリー[id:rikunora:20080812]にこう書いたのだが、果たして本当だろうか。
よくよく思い返すと、昆虫にも悩みがあることを示す逸話があったように思う。
私が覚えているのは「コオロギのひきこもり」という話だ。
確か「心理学パッケージ」という本に載っていたと思うのだが、本もどこかに紛失してしまったし、詳細もうろ覚えだ。
コオロギのオスは、メスをめぐってけんかする。
けんかに負けた方は、いわゆる負け犬状態になって、巣穴に「ひきこもって」しまう。
そして、なかなか次のけんかには出向かないのだそうだ。
ひきこもる理由として、けんかに負けたコオロギは体力を消耗しているし、ケガを負って不利な状況にある可能性も高い。
なので、不利な状況下でいたずらに次回に挑戦するよりも、回復を待った方がよいのだろうといった解説が為されていた(確か)。
私はこの記事を見て、コオロギも人間と同じなのだと感じた。
全く他人(他虫?)ごととは思えない。
コオロギだって悩むのだ。
一寸の虫にも五分の魂なのである。

同じ本の中で、もう1つ覚えている逸話がある。
それは「その後のパブロフの犬」という話である。
パブロフの犬とは、条件反射を世界的に知らしめた有名な実験だ。
この実験が行われてからというもの、世界中のあちこちで条件を変えて、似たような実験が行われた。
そういう実験に使われた犬が、その後どうなったか、というお話である。
いわゆるパブロフの犬の実験によって、犬は音によって条件付けられることがわかったので、
その次には「犬は図形を見分けられるか」ということがテーマに上がった。
犬に、丸の書いてある札と、三角の書いてある札を見せて、丸の札を見せたときにだけエサを与える。
これを繰り返すうちに、犬は丸の札を見せるだけでよだれをたらすようになった。
つまり、犬は丸と三角によって条件付けられるのである。
それでは、真円と楕円であったら、見分けが付くのだろうか。
同様の実験を、真円と楕円によって繰り返してみる。
すると、犬はやはり真円と楕円を見分けていることがわかる。
実験はさらに続く。
いったい犬は、どれほど微妙な図形の違いまで認識できるのだろうか。
縦横比が2:3の楕円と、4:5の楕円だったらどうか。
9:10の微妙な楕円を見分けられるのか。
ところが、この辺になって犬に少しずつ変化が見られるようになってきた。
図形を見分ける「成績」が、急速に下がっていったのである。
というより、実験そのものがすっかり嫌になってしまったのだ。
食欲はすっかり減退し、札を見せるとキャンキャンとおびえるばかりで、すっかり元気を無くしてしまったのだそうだ。
これも全く他人(他犬?)ごととは思えない、現代の詰め込み教育を彷彿とさせる話だ。

犬は悩む。というか、ノイローゼに近い状態に陥ることがある。
犬を飼ったことがある人なら、よく解っていることだと思う。
昔、近所で飼っていた犬の主人が、長期旅行で出かけていたことがある。
するとそれから毎晩、主人が帰ってくるまで、犬は悲しげに「キューン、キューン」と鳴き続けた。
ハチ公だって、名犬ラッシーだって、あれほどまでに忠友の情に溢れているのだ。
犬が悩まぬはずがない。

悩みは人間だけが持つ特権ではなかったのだ。
犬も、こおろぎも、悩む。
人に近い猿や、大型哺乳動物は、ほぼ間違いなく悩むだろうと思う。
それでは、ミミズやゾウリムシは悩むのか。
例えばゾウリムシに薬品をかけて、膜に異常な電位差が生じたとしたら、それは一人前(一匹前)に悩んでいる証なのだろうか。
悩みを持つとは、即ち心を持つのと同じである。
ゾウリムシも生きているのであれば、ほんの少しくらいは悩みの片鱗を持ち合わせていたとしても不思議はないだろう。


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2.学習と悩みに相関はあるか?


それでは、人間だけが持つ高尚な悩みというものが、あるのだろうか。
人間の人間たる最大の特徴は、発達した大脳皮質と、それを用いたシミュレーション能力にある。
人の悩みはその大半が、シミュレーション結果が悪く転ぶかもしれないと予測するところから生じる。
端的に言って、絶望の無いところに希望は無い。その逆も然り。
なまじ這い上がれるチャンスがあるから悩むわけで、初めから上がる(又は落ちない)という考え自体が無ければ、悩みも無い。

かなり以前の話になるが、私は貧乏旅行でインドに行ったことがある。
インドの農村に行ってまず感じたのは、みごとなまでにモノが無い、ということだった。
旅行者としてやってきた私の方が、1つの家にある全てモノよりもたくさん持っているのではないか、
そこまで思わせるほどだった。
ならば、そこに住む人はみな暗い顔をしているのかというと、そんなことはない。
なぜなら、村中がみな同じようにモノが無かったからだ。
モノに囲まれた日本人の方が、よっぽど辛気くさい表情をしている、そう思った。

ところが同じインドであっても、都会に隣接するスラムでは事情が違う。
モノが無いのはスラムも農村も同じだが、スラムに住む人の表情は暗い。
なぜなら、すぐ隣に金持ちがいるからである。
インドの都市は、たいてい身分や宗教に応じて住む区画が異なっている。
金持ちは金持ちの区画、貧乏は貧乏の区画。
この2つの区画は、決して交わることがない。
道路一本を隔てて、右側が金持ち、左側が貧乏、といった場所がある。
こういう場所に居ると、貧乏はみじめである。
「貧乏は都市にある」そう感じた。

インドには、日本と同じような「チャンスをつかむ道」「這い上がれるパス」が無い。
あるのかもしれないが、極端に狭い。
職業の基本は世襲で、餅屋は餅屋、靴屋靴屋、農家は農家のままである。
日本の価値観からすれば、これはひどく閉塞的な仕組みに思える。
当のインド人はどう思っているのだろうか。
インド人に直接聞いた訳ではないのだが、私の印象では、どうも日本人が思っているほど窮屈ではないように見えた。
将来に思い悩む、という点に関しては、日本人の方がよほど上なのではないか。
そこで気付いた。
「チャンスをつかむ道」があるということは、それと同じだけ「チャンスを逃す不安」もあるのだということに。
インドでは「這い上がれるパス」が無い代わりに、「さらに転落するパス」も無いのである。
そして、両方のパスが無ければ、もはやこれについて悩む必要も無い。
不安とは、そういった性質のものだったのだ。

1つ大事なことを付け加えておくと、上のお話はもうずいぶん以前のことで、今のインドには(たぶん)あてはまらない。
近年のインドには「チャンスをつかむ道」が開けつつある。
反対に、近年の日本では、本当に「チャンスをつかむ道」「這い上がれるパス」があるのか、疑わしくなってきた。

悩みの話に戻ろう。
とどのつまり人の持つ悩みの大半は「シミュレーション能力」から生じるのである。
 ・もしこんなふうになったら、どうしよう。(不安)
 ・あのときの自分がこうしなかったら、どうなっていたか。(後悔)
 ・もし自分がこの立場だったら、どうなるか。(嫉妬、ねたみ)

食べ物を奪い合う悩み、メスを奪い合う悩みは、ミジンコでも持ち合わせているかもしれない。
しかし、将来について、自分について思い悩むのは、学習によって未来を変えられる動物特有のものではないかと思う。
悩みとは、学習能力の代償なのだ。


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3.なぜ人間はこれほどまでに悩むのか?


人の悩みには、学習、あるいはシミュレーション能力が大きく寄与している。
ただ、それだけではない。
人の悩みには、ただ生存に有利な能力の代償、という以上の意味がある。

もし世の中が自分をも含めて、美人、あるいはイケメンばかりだったらどうだろう。
きっと悩みは半減するだろう。
しかし実際に生まれくる人間には、生まれながらに出来の良いものと悪いものがある。
なぜ世の中にはブス、ブオトコがいるのだろうか。
ピカピカの工業製品は、同じラインから生み出されるもの全てが整った、画一的なデザインで世に送り出される。
人間は工業製品のようには生み出されてこない。
なぜ人間は工業製品のように画一的に生み出されないのか。
生物に出来、不出来があることを、なんとなく自明のことだと思っていないか。
生物の仕組みが、現時点で人が作った工場よりも劣っているとはとても思えない。
生物が「本当にその気」になれば、画一的に出来の良いものだけを生産することは、さほど難しくないはずだ。
あるいは、たとえデザインに出来、不出来があったとしても、それらを全てカッコイイ、美しいと感じるように、感覚器官を仕組んでおくことは可能なはずだ。

生まれつきばかりではない。
心が、体が、知能が発達する過程で、チャンスをつかんでどんどん伸びてゆく個体と、学習し損ねてたいして伸びない個体がある。
しかしなぜ、人間はこのように非効率的な発達システムを採用したのだろうか。
明らかに生存に有利な特性は、学習以前にあらかじめプリセットしておけばよいのではないか。
(これは先日書いたお話「学ぶこととは出会うこと[id:rikunora:20080812]」)

生誕の出来不出来、発達過程のばらつき。
これらはむしろ、生物が積極的に取り入れた仕組みなのだろう。
つまり、悩みを生み出す仕組みは、最初から人間の中に組み込まれていたのである。
なので「悩みをなくそう」とか、「悩みのないユートピアのような社会システムを作ろう」などという考えは、端から人間の在り方に反しているのだ。

なぜ生物が出来不出来、ばらつきを積極的に取り入れるのか。
それは未来を探索しているからである。
出来不出来、ばらつきが生じる形質は、いまだに最適解が見出せていない、発展途上の段階にあるということだ。
あらゆる生物の中で、特に人間だけが悩み多いのは、人間こそが発展途上の段階にある、あらゆる生物のフロンティアだからだ。
もし人間が「完成したら」、悩みは消える。
同時に、もうそれ以上発展する可能性も失われる。

さて、生物としての人間が最適解を目指して探索を続ければ、その過程で多くの「無駄」や「はずれ」が生じる。
むしろ「はずれ」の方が多いはずだ。
そこで「はずれ」となった、大多数の人間はどうしたら己の存在に納得できるのか。
「はずれ」は無意味だから、速やかに死んだ方が人という種全体にとっては良いのだろうか。
だから「本当のはずれ」は、死をたいして苦にしないのだろうか。
これは生物の問題ではなく、人としてどうあるか、という問題である。
「はずれ」が判明した時点で、さっさと死んでしまえ、というのも1つの極端な答だろうし、
いかなる状況においても生は尊く、死は罪悪、というのも1つの答だろう。
両者の間に、絶対に正しい答は出ていない。
つまりここにも最適解は無いわけで、また悩みが1つ増えてしまった。