無限角形は円と同じか?

Q.特定の操作を果てしなく繰り返して作った無限角形は、円と同じものか?
A.異なる。無限角形は、限りなく円に近づくだけである。
  限りなく円に近い形を、円そのものにするところに、1つの飛躍がある。

* 数学好きの人教えてくれ〜い。
>> http://anond.hatelabo.jp/20090124010648
私は数学が得意ではありませんが、好きなので、考えてみました。
質問の意図とは、少しずれているかもしれません。
あと、話の性質上、カンペキな答案は私には無理ですから、過度な期待をしないように。

* あらすじ *
・有限回の操作と、無限との間には飛躍がある。
・その飛躍を埋める操作は「完備化」と呼ばれている。
・過去の天才たちは、この有限と無限の飛躍を埋めるために多大な努力を傾けてきた。
・その結果、壮大で堅固で、一般人には難解な現代数学の基礎ができあがった。
・「完備化」は、解析学の基礎、微分積分、といった操作の中に組み込まれることになった。
・だから、私たちはいちいち壮大な基礎を気にせずとも、安心して微積分を使うことができる。
・でも、ときどきふと疑問が生じることがあって、こうして質問箱に投稿したりするわけだ。

もとの質問は球についてですが、ここでは簡単のため、円について考えてみました。
まず、正無限角形と円とは、別の形なのだというお話を。
以下は「群の発見 (原田耕一郎)」という本からの抜粋です。

正n角形のnを無限大にしたらどうなるだろうか。
・・・元Aの位数は無限であり、群G∞の位数も加算(無限)である。
しかし、円のシンメトリー群は・・・群Gcircle の位数は非加算(無限)である。
異なるシンメトリー群を持つのだから、正∞角形は、群論的に円とは言えない。
 ・・・
正∞角形は円であるという主張は、図形的には、その中間には何も考えられないということであるが、
何も考えられないということと何もないということは同じではない。
代数は、そのような、感覚的に陥りやすい即断からわれわれを救ってくれる。

ここで重要なのは、加算無限、非加算無限というところです。
加算無限とは、自然数1,2,3・・・と1対1で対応付けできる無限のことです。
正無限角形の辺は、端から順に1,2,3・・・と番号付けできますから、加算無限です。
一方、非加算無限とは、自然数と1対1で対応付けすることができず、自然数より多くの元(高い濃度)を持つ無限のことです。
実数の全体は非加算無限です。
なので、円と比べれば、正無限角形はまだ「カクカクしている」んです。
正無限角形の頂点だけを取り出した図形は、円と比較すれば「隙間だらけ」ということになります。

でも、それだと円周率とか、円の面積などといったものは、計算できないことになってしまいます。
多角形をどこまで細かくしていっても、円と一致しないのであれば、どうやって円周率を計算するのでしょうか?
というか、円周率という数は本当に存在しているのか?
問題は、
 「ある一定の操作を果てしなく繰り返し行ったとき、その先はどこに行き着くのか?」
という問い掛けに集約できるでしょう。
数学では、この問い掛けを「数列の極限が収束するか?」という風に言い回しています。
より正確に、ある数列 A(n) が収束するとは、いったいどういうことなのでしょうか。
【定義】
「数列 A(n) が n→∞ で値αに収束するとは、
 どんなに小さい正数εをとってきても、ある番号Nが存在して、
  n >= N ならば | A(n) - α | < ε とできることである。」
・・・これでみんなが数学嫌いになる、と恐れられている名文句なんですけど。。。
言い換えると、
 「誤差εをいくらでも小さく抑えられるように、精度Nを向上させることができる」
ってことなんです。

さて、数列の極限、つまり繰り返し操作の行き着く先が、いつでも予想の範囲内に収まっていれば、
難しい議論をする必要は何もなかっただろうと思うのです。
問題なのは、収束先が「予想の範囲を超えた」ときです。
収束先は、必ずしも「今考えている集合」の中に含まれているとは限りません。
点列の収束が真価を発揮するのは、むしろ「今考えている集合をはみ出したとき」にあります。
点列の収束先が「予想の範囲を超える」例として、まっさきに挙がるのは次の式でしょう。
  0.9999・・・ = 1
この・・・は、9が無限個続いている、という意味です。
9の小数点以下の桁数Nを増やせば、1と0.9999・・・の差εは、いくらでも小さく抑えられる。
なので、上の定義にあてはめれば、確かにこの等式は成り立っています。
でも、感覚的にはどうもしっくりしない。
なぜ納得しずらいと感じるのか。
いま、実数全体を1以上の集合Aと、1に満たない集合Bに分割してみます。
0.9999・・・という点列は、9が有限個のときには、全て集合Bに属しています。
なので、点列そのものは集合Bの中だけでカタが付くのですが、
にもかかわらず「9が無限個連なった」点列の行き着く先は、集合Bの範囲を超えて、集合Aの中に入ってくるのです。
点列そのものと、点列の向かう先は、別のもの。
集合AとBとの間の飛躍に、ちょっと違和感を覚えるかもしれませんが、
よーく考えてみると、これで何の矛盾も不都合も無いんです。

例をもう1つ。
一本の棒を、半分にして、それをさらに半分にして、さらに半分にして、さらに半分にして・・・を、
どこまでも繰り返していったら、無限の果ての収束先は0になります。
この場合も、有限回の操作では、必ず何かが残るはずでしょう。
でも、無限回の操作のその先は、0になってしまうんです。
* 参考:円で隙間を埋め尽くす d:id:rikunora:20081129

点列そのものと、点列の向かう先は、別のもの。
この性質を上手く使えば、点列によって数の概念そのものを拡張することができます。
私たちが普段なにげなく使っている数直線上にある点の集まり、実数は、点列の性質を使って有理数を拡張したものです。
有理数とは、分数のこと、つまり割り算の答のことです。
数直線は一見すると有理数でもってびっしり埋め尽くせるように思えますが、
実は数直線上には割り算の答にならない数、√2であるとか、円周率πなどといった、無理数もまた無数に存在します。
有理数だけを並べて作った線は、いわば「隙間だらけ」なのです。
有理数の世界しか知らない人が、どうやってこの隙間を埋めて、無理数の概念に到達できるのか。
ここで活躍するのが、点列の収束。
有理数の世界だけで作った点列の向かう先は、必ずしも有理数にはならない。
無限に並べた有理数の先が、無理数となるような数列を作ることもできるのです。

実数とは何か?
とりあえずそれは、
 「コーシー列の収束先を全て含んでいるような数の集まり」
のことだ、と答えておけば良いのだと思います。
(実数とは何かを正確に答えるのは、とても大変です。少なくとも私には無理。)
聞き慣れない言葉が出てきましたね。
【定義】
「コーシー列 A(n) とは、次の性質を持つ数列のこと。
 任意の小さな正数εに対して、ある番号Nが存在し、
 Nより大きな2つの番号 i >= N、j >= N について
  | A(i) - A(j) | <= ε が常に成立している。」
要は、先に行くほど差が縮まってくる数列、ということです。
何でもよいから、とにかくこういったコーシー列を作ったとき、その向かう先まで全て含んでいるのが実数なのです。
いまここに、割り算の答までは全て含んでいるような、有理数だけの数の世界があったとしましょう。
有理数の世界の中で、とにかくどこかに収束するようなコーシー列を片っ端から作ってみる。
すると、そういったコーシー列の中には、行き先が有理数の中に収まらないようなものが出てきます。
行き着く先が、有理数の「隙間」に落ち込んでしまう。
ということは、コーシー列の行き着く先でもって有理数の間の「隙間」を埋めることができるわけです。
あらゆるコーシー列でもって、有理数の隙間をくまなく埋め尽くしたもの・・・
それが、有理数無理数を全て合わせた、実数の姿なのです。
このようにして隙間を埋め尽くす操作のことを、「完備化」と言います。
有理数を完備化したものが実数です。
また、あらゆるコーシー列の収束先を全て含んでいるような空間のことを「完備な空間」と言います。
実数は、完備な空間の代表例です。
もちろん「あらゆるコーシー列を実際に作り尽くす」ことは、人間業では不可能です。
無限にありますから。
ただ理屈の上で、完備化という操作によって、有理数を実数に拡張することができる、というわけなのです。

さて、最初の質問に立ち返りましょう。
無限角形と、円との違い。
それは、数直線で言うところの、有理数と実数との違いです。
(正無限角形ではくて、変な形の無限角形を考えると話が複雑になってしまうのですが、、、
 とにかく無限角形は加算無限、円は非加算無限、ということが言いたいわけです。)
そして、無限角形を円に拡張するには、その間に「完備化」というステップが欠かせません。
無限角形の上に点列を作って、その点列の収束先をつけ加えていって、ようやく円が完成します。
無限角形の上に円周率は存在しませんが、完備化された円周上には、確かに円周率が存在します。
この事情は球面であっても同じでしょう。
「無限多面体には、加算無限個の面が存在し、球には、非加算無限個の接平面が存在する」

最後に1つ、日頃から抱いている個人的な妄想を付け加えましょう。
この「有限と無限」の間に横たわる飛躍は、とっても本質的な、越えがたい壁なのではないか。
私はそう思っています。
例えば、コンピューターに有限回だけ「犬」のサンプルを見せたところで、
そこから世界に無限にいる「犬」という概念には到達しません。
(実際の犬は無限にはいませんが、犬という範疇に属するものは無限に考えられます。)
コンピューターが犬を見分けられるのは、あらかじめプログラマーが形態判別するプログラムを用意していたときだけです。
そんなプログラムを用意せずとも、有限回のサンプルを演繹して「犬」概念を形成するような、すごいコンピューターは無いものか。
もしそれが可能となれば、コンピューター自らが考え出すのではないかと・・・

人間は5回くらい「犬」を見せれば、そこから演繹して「犬概念」に到達します。
その後、犬の写真を見せれば、「ああ、ここにさっきの動物が居る」って、簡単に見抜くことができる。
たとえ写真の犬が、いままで見たことがない新種であってもです。
この能力は何なのでしょうか?
私には、人間が「有限と無限の間」を飛躍したとしか思えません。
このとてつもない能力に、私は密かに「カントール・ジャンプ」という、かっこいい(かつ怪しげな)名前を付けています。
きっとあなたも、毎日「カントール・ジャンプ」しているはず。
すごいことなんですよ、これ。
この言葉、流行らないかな。