死後の世界、あるいは天才の作り方

ずいぶん昔の話となるが、かつて私の通っていた幼稚園は、
教会が運営していたところだった。
そこで幼いころ、私はこんな話を聞いた。

「誰も見ていないと思っていても、神様はちゃんと見ています。
良いことも、悪いことも。
いつも良いことをしてきた人は、最後には天国に行きます。
でも、悪いことばかりした人は、天国には入れません。」

今にして思えばたいへんありがたいお話だと思うのだが、
当時の私は幼心に、神様はちょっとずるいなと思った。
神様はこっそり隠れて見てなんかいないで、
悪いことする前に助けてくれればいいじゃないか、と思ったのである。
悪いことをする人には、せざるを得ない事情がきっとある。
おなかが空いたから、つい盗みを働いたとか。
大切なものを壊されて、ついかっとなって手を上げたとか。
もし神様がいつでも見ていて、なんでもできるのであれば、
悪いことをする前に未然に助けてくれてもよいのではないか。
おなかがすかないようにとか、あるいは、大切なものが壊れないようにとか。
最初から神様が原因を取り除いておけば、そもそもこの世に悪事はないはずだ。

天国に入れないような悪人を作ったのは、他ならぬ神様自身なのである。
悪い性質を持った人をこの世に送り出し、不遇な環境に置いたら、
当然悪事を働くに決まっている。
その悪人が死んで戻ってきたときに、悪事の理由を全て当人のせいにして、
天国に入れないのはあまりにも理不尽ではないか。

もっともこの疑問は、私が抱くよりもずっと以前から、
大人たちが真剣に議論していたようだ。
当時の私はそんな難しいことを知る由もなく、
とにかく独善的な判断でもって人を天国、地獄、と選り分けるのは
全く納得がゆかないと感じていたのである。

それでは、死後の世界はどうなっていれば納得がゆくのか。
もちろん死後の世界のことは誰にもわからないし、原理的に確かめようもない。
それでも私は、恣意的な神様がいなかったとしたら、
どういう風になるのが最も自然だろうかと考えてみたのである。
その結果、地獄に堕ちるよりもずっと恐ろしい1つの妄想にたどり着いた。
それは、裁くのは神様ではなく、自分自身なのだという妄想である。

死んでしまうと、5つの感覚は全て閉ざされる。
何も見えず、何も聞こえず、何にも触れることはできない。
しかし、どういうわけか意識だけは生きている時と同じように活動できるのではないか、
そんなことを考えてみたのである。
外界からの情報や刺激は何1つ入ってこない。
また、自分から外界に対して何1つ訴えることもできない。
ただ虚空の中に自分の意識だけがぽっかりと在って、考えることだけができる、
そんな状態がただただ永劫の時間続くのである。
その中で自分の持ち物といえば、生前に溜めた記憶と知識と思い出、それが全てとなる。

もしこの状態に置かれたとしたら、自分だったら何を考えるだろうか。
たぶん、自分の人生のイベントを1つ1つ思い出して、思い切り悔やむと思う。
 「あのとき、ああすれば良かった」
 「なぜこうしておかなかったのだろう」
 「これだけは伝えておきたかった」
そんなことが後から後から出てきて、自らを苛む。
でも、やり直しは効かない。
反省の時間だけが無限にある。
あるいは、うまく行かなかった言い訳を次々に思い浮かべるかもしれない。
 「あれは運が悪かった」とか、
 「条件が整っていなかった」とか、
 「そもそもあれは私ではなく、あいつが悪いのだ」とか。
終わることのない無念な思いが、意識の中をいつまでも堂々めぐりすることだろう。
しかし、どれほど言い訳をしても、訴えても、誰も聞いてくれる者は無い。
この世界には自分の意識しか存在していないのだから。
神様や仏様が褒めたり、慰めたりしてくれるわけでもない。
閻魔様に怒ってもらった方がまだましであろう。
そうして悔やみ抜いた果てに、
生きていた頃の時間がどれほど素晴らしく、
貴重であったかを思い知ることになるだろう。

 目に見える景色というものが、

 耳に聞こえる音色というものが、

 手に触れる感触というものが、

 全てが奇跡であったということに、

 死んで初めて気付くのである。

でも、もう遅い。
そうして、ますます悔やむことになる。
狂いたくても狂えない。
もちろん狂い死ぬこともない。
もう既に死んでいるのだから。
覚めない悪夢が延々と続くことになる。

しかし、もし清く正しく人生を全うし、
人生において一片の悔いもないと自ら断言できる人がいたとしたら、
死後の世界はどうなるか。
きっと、とても幸せな世界であろう。
自分の人生のイベントを1つ1つ思い出して、その全てに満足を見出すであろう。
こういう人にとって、死後の世界とは永遠に続く夢のようなものだ。
正に極楽であろう。

死後、裁くのは神様ではない。
自分自身である。
もちろんこんな死後の世界が本当にあるかどうか、全く想像の域を出ない。
ただ、天国と地獄を想像して神様へのポイントを稼ぐよりも、
言い訳もごまかしも効かない自分自身に正直であった方が、
ずっと納得がゆくように思えるのである。

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人は5つの感覚を閉ざされると、気がふれてしまうものらしい。
私は話に聞いた事しかないが、心理学の実験で「感覚遮断」というのがあるらしい。
窓も、飾りも何もない真っ白な部屋の中に、何もせずに、ただ閉じこもる。
目には目隠しを、耳には耳栓を、手には触覚を伝えにくい手袋をはめる。
あるいは「アイソレーション・タンク」と呼ばれる液体の入ったカプセルの中で、
ただただ浮かび続ける。

こういった特殊な環境は日常ではあまり体験できないだろうが、
私は少しだけ似たような場所に行ったことがある。
それは、コンピュータを管理する「データセンター」という名の地下室である。

私は長い時間ごろごろしていても一向に苦にならないたちなので、
たとえ数日の間刺激を遮断しても大丈夫だろうくらいに思っていた。
でも、データセンターに閉じこもってみて考えが変わった。
こりゃだめだ。
窓も、音も、臭いさえも、全てが閉鎖的な空間。
ここで作業していると、なぜか時間の流れが速いように感じられるし、どっと疲れる。
作業しているときには目的があるし、たいていは仕事仲間といっしょにいる。
これがもし、たった一人で、何もすることがなかったとしたら。
さらに、この空間に閉じこめられていて、いつ助けが来るかどうかもわからない、
あるいは、もう一生抜け出すこともできないのだとしたら。
おそらく3日と待たずに神経がまいってしまうだろう。
たぶん、核シェルターってこんな感じなのだろう。

もしこういった核シェルターのような世界に閉じこめられたなら、どうするだろうか。
最低限の空気と水と食料とトイレだけはあって、生存するだけなら全く困らない。
しかし、それ以上は何一つ無い。
生きるための努力をしなくても良いのだから、とっても楽ちんだと思うだろうか。
私が思うに、大多数の人はテレビ(あるいはインターネットや携帯電話)が無かった時点で、
非常な苦痛を訴えることになるだろう。

それではたまらないので、無限の退屈地獄を解消するために、
何か1つだけ持ち込んでよいのだとしたら、あなたなら何を持ち込むだろうか。

電子ゲーム?
すぐに飽きるだろう。
マンガ、おもちゃ?
とにかく底の浅いものではすぐに飽きてしまって、無限の時間に耐えられない。
もし本を持って行くのであれば、ブルバギとか、カント全集なんかが良いかもしれない。
チェスとか囲碁なんかもよさそうだ。
果たして必勝法はないものか、無限に探索ができる。
いっそ「尽きることのない紙と鉛筆」というのも良いかもしれない。
私だったら「モニター以外何も入っていないコンピュータ」を希望する。
そこで、まずOSを作り、コンパイラを作り、独自のコンピュータ言語を作り出し、
それを使ってゲームを作り、そのゲームを極める。
これなら無限の時間にも耐えられそうだ。

さて、このように閉鎖空間の孤独と、無限の時間と、たった1つの「退屈しのぎ」を与えれば、
その結果何が起こるだろうか。

おそらくそこには他に類を見ない、全く独特の個性的な世界が展開されるだろう。
この私でさえ、OSとコンピュータ言語くらいは作り上げていることと思う。
数学をとことん極める者、哲学をとことん極める者、
あるいはチェスや囲碁を、とことんまで極める者が出現するだろう。
こうして天才が作られる。

私が勝手に想像するに、天才とは恐ろしいほどの孤独の中から生まれてくるのだと思う。
このような閉鎖空間に放り込まれたなら、おそらく大半の人は頭がおかしくなるに違いない。
100人のうち99人までが異常をきたすかもしれない。
それとも、開き直った人間は案外強くて、半数程度は発狂せずに済むかもしれない。
さらに、たとえ本人は至って正常であると主張しても、
閉鎖空間で培ったものを、たまたま外の世界に持ち出したとき、
外の世界と適合するかどうかは、また別の問題である。
それでも、こうした閉鎖空間で正常な神経を保ち続け、
その結果、たまたま外の世界との合致に成功するケースは、
ごく希ではあるが、必ずや存在するであろう。
これが天才の世界なのだと思う。

これは単にステレオタイプなのかもしれないが、
毎日テレビにゲーム三昧、世の享楽と刺激を追い求めている生活の中から、
天才が生まれるとは考えにくい。
今日の我々の暮らしの中で、実は最も得難いのは「情報の遮断」ではないかと思う。
こうしている間にもテレビ番組は流れ、広告は隙をついて入り込み、携帯電話は鳴りやまない。
してみれば、こうした現代的生活は目端の利く小利口者を輩出はするが、
強烈な大天才は生まないように思える。

最も厳しい仏教の修行の1つに、山中で10年間全く人に会わなで暮らす苦行、というのがあるらしい。
(確か10年だったと記憶している。あるいは20年だったか、30年なのか、その数字は定かではない。)
聞いた話によると、修行を初めて2〜3年のうちは、人恋しく、狂わんばかりに人語に飢えるのだそうだ。
しかしそれを過ぎると、やがて鳥や虫の声が言葉として聞こえるようになり、
風の気配を感じ取れるようになり、最後には自然の奏でる調べと一体になるのだという。
恐ろしいまでに高い境地である。