量子力学のつまずきの石

とにかく量子力学という学問はわかりにくい。
実体が厚い数学のヴェールに隠れていて、直感的なイメージを把握することができない。

それでいてシュレーディンガーの猫だとか、テレポーテーションとか、
断片的な知識だけが跳梁跋扈し、どこまでが本当なのか良くわからない。
(もっともこの、怪しげな部分に魅力があることも確かで、
多くのSF作家の想像をかき立ててきたことも否めない。)

20世紀物理学の金字塔は、相対論と量子力学の2つだと言われている。
このうち相対論の方は、やり方によってはかなり明瞭なイメージを思い描くことができる。
特殊相対論に限れば、事実上ピタゴラスの定理だけで理解できる。
ところが、量子力学の方にはそういった「直感的にすっきりと」理解できる方法が
(いまのところ私の知る限り)見あたらない。
モヤモヤとした電子雲のようなものが、いつまでも脳内に巣食って離れないのである。

私は今なおモヤモヤの状態にあるのだが、
そんな私を多少なりとも救ってくれたファインマンさんの言葉がある。

量子力学はあまりも逆説的であるため誰一人としてこの問題を本当に理解はしていないのだから、
量子力学がわからなくてもあまり悩まないように。
本当をいえば、量子力学を完璧に理解したと思ったのなら、おそらくあなたは勘違いしているのだ。」

そうなのだ。
量子力学をすんなり理解できた、という人の方が、どこかおかしいのだ。
これで大手を振って(?!)、わかりません、と言うことができる。

このように理解の悪い私が、量子力学をかじったときに大きくつまずいたポイントが3カ所ある。
しかも、この3カ所は私だけでなく、野次馬的に量子力学を聞きかじった人が、
かなり多く引っかかるポイントでもある。

そこで、これから学ぶ者の一助になるかもと思い、私のつまずき石を掲げておく。

「1.エネルギーはデジタル化されている」
「2.スピンは自転している」
「3.原子の惑星モデル」

さらに、もう少し高度なつまづき石にについても触れておこう。

「4.観測問題についての解釈」

これはデリケートな問題なので、最後に回す。

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1.エネルギーはデジタル化されている

これは多分に「量子」というタイトルが悪い。
量子力学」と言うくらいだから、エネルギーには最小単位があるに違いない。
エネルギー自体が、離散的に、デジタルになっているのだろうと、当然そう思う。
そして、この思いこみに追い打ちをかけるように、
量子力学の導入部には「光の粒子説と波動説」の説明がある。
そこで何となく「エネルギーそのものが最小単位の粒になっているのだろう」
と安易に思いこむわけだ。

だがこれが間違いの元なのだ。
一般に粒子説の証拠とされている、アインシュタイン光電効果の式をじっと見てみよう。
E = h ν
付随する解説を一切忘れて、この式だけを見ると、
「エネルギーは、振動数に比例する」
となる。
h は単なる比例定数であって、エネルギーそのものの大きさを表しているわけではない。
この光電効果の式だけからは、「デジタル」とか「粒子」といった概念は出てこない。
アインシュタイン自身がどのような解釈を付けたかは別として。)
私自身はといえば、ここでたいした注意も払わず、なんとなく
「エネルギーってのは、大きさがプランク定数hの粒子なのかな〜」
と思った。
式をよく見れば、プランク定数はあくまでも比例定数であって、
エネルギー自体でないことは明らかだ。
エネルギーそれ自体に最小単位があるわけではない。
事実、上の式で振動数をうんと小さくすれば、エネルギーはいくらでも小さくなる。
それを「エネルギーそのものがデジタル化している」と勘違いしてしまったのが、
私の混乱の第一因だったわけだ。

しかし量子力学についての話を聞くと、
どこへ行っても「離散的」「とびとび」といった表現に行き当たる。
この「デジタル」な性質はどこから来るのだろうか。
答を先に言えば、それは「境界条件」から来るのである。

ここにまた、1つの落とし穴がある。
たいていの量子力学の課程では、最初に「井戸型ポテンシャル」を解かせる。
井戸型ポテンシャルとは、有限長の箱の中に粒子を入れたらどうなるかという問題だ。
そして、この箱にぴったりと収まる解は、離散的な、とびとびの値になるということで、
なんとなく納得する。
ちょうどバイオリンの弦が、弦の長さに見合った音だけを奏でるように、
箱の中の粒子も、箱にぴったりと合った状態だけが存在し得る。
だからこの箱とのエネルギーのやりとりは、
ぴったりと合った幾つかの状態の差分としてしか行うことができない。

つまり、井戸型ポテンシャルの問題の場合、
離散的な性質は「有限な箱の長さ」が決めているわけだ。
箱を長くしたり、短くしたりすれば、中のエネルギーは当然アナログ的に変化する。

全く境界条件のない自由な空間でのシュレーディンガー方程式の解は「ただの波」である。
別にデジタルでも、とびとびでもない。
ih~ (d/dt) ψ(x,t) = H ψ(x,t) の特解は、
ψ(x,t) = exp(-iEt) exp(ipx) となる。(Eはエネルギー、pは任意の運動量)

私はずいぶん後になってから、このことに気付いた。
それまでの間なんとなく「エネルギーそのものがデジタルなのだ」と思い込んでいたために、
かなりの遠回りをしたように思う。

おせっかいついでに言えば、原子のモデルである中心力場についても、
境界条件」が重要な役割を果たす。
3次元空間に対して、粒子が丸く(あるいは原子軌道のごとく美しい形に)
ぴったりと収まるのは、とびとびの、離散的な状態に限られる。
「球対称な中心力場」という境界条件が、とびとびの原子軌道を形作っているわけだ。

この原子とやりとりするエネルギーは、とびとびの原子軌道の差分に限られる。
それゆえ、原子が吸収、放出する光は、特定の大きさのエネルギー=特定の波長に限定されるわけだ。
光子についても、丸いつぶつぶが弾丸のごとく空間を飛んでいく姿を思い描くのは、
やはり誤解の元である。
光子がどのような姿で空間を飛翔しているのかは、本当のところ誰も見たことがない。
「見る」という行為は、原子との相互作用を通じて初めて可能となるのだから。

誤解を恐れずに言えば、量子力学ではどうも「粒子」の概念を強調し過ぎているように思える。
(私自身が、上のような誤解をしてきたので。)
名前も「波動力学」の方が、どうもしっくりくるように思えるのである。

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2.スピンは自転している

これもやっぱり「スピン」という名前が悪い。
「スピン」という名前はあくまでも1つのたとえに過ぎず、
決してホントに剛体の電子が回転しているわけではない。
では、ホントのところ電子はどうなっているのか?
これもやっぱり「ホントのところの電子の姿は、誰も見たことがない」
としか言いようがない。

我々が見ることができるのは、
あくまでも目を構成する原子と相互作用の結果であるか、
何らかの観測装置との相互作用の結果だけである。
だから、私から確実に言えるのは
 「これこれの観測装置で、こんな実験をしたら、こんな結果が出た」
という所までなのだ。
その結果から、
 「きっと回転しているのではないか」とか、
 「きっと6次元空間で捩れた姿をしている」とかいうのは、
言ってしまえば想像の産物なのである。

では、スピンと呼んでいるものの正体は何か。
それは「粒子の持つ磁気的な性質」のことである。
粒子に磁石を近づけていったとき、どのような挙動を示すのか、その性質のことである。
例えば電子の場合、磁場の中に置かれると、
磁場に迎合して流れにのる「体制派」と、
磁場に逆らって抵抗する「反体制派」に分かれる。
コウモリのような「日和見派」が現れることはない。
必ずすっぱりと、体制派、反体制派の2つに分かれるというのがスピンの意味するところだ。
体制派、反体制派、といったのは、実際にはエネルギーの低い状態と、
高い状態の2状態に分かれる、という意味である。

私も例に漏れず、電子のスピンとは、丸い剛体の粒がコマのように自転しているだと思った。
電荷を持った粒子が回転しているのだから、電子が小さな磁石になっているのだと、
そんなお話も聞いたことがある。
しかし「回転している」という想像が観測結果と一致しているのは、そこまでである。

まず私がつまずいたのは、電子のスピンは斜めにならないのか、という疑問だった。
電子のスピンには「上向きと下向きの」2状態しかない。
なぜか量子力学のメカニズムによって、そのようになるのだと教えられる。
しかし、上向きと下向きしか無いというのは、具体的にはどのような状況を指し示すのか。
もし電子が上を向いたときに、見ている私の方が首をかしげて斜めから見たら、
電子は斜めを向いていることにはならなのいか。
磁場のない自由な空間では、電子はいったいどちらを向いているのだろう。

ここで、最初からスピンとは「粒子の持つ磁気的な性質」なのだと理解していたなら、
何も混乱を招かなかったであろう。
実のところ、電子は回転しているわけでもなければ、上下を向いているわけでもない。
(逆に、電子は絶対に回転していないとか、全く向きが無いと断言することもできない。)
要は、素顔の電子の回転や向きを、誰も見たことがないのだ。

我々が見たことがあるのは、磁石を近づけたときに2つの状態に分離する電子線の姿だけだ。
それを、「電子の磁気的性質」とか「磁気量子数」とか呼んでいれば、
何のつまづきも無かったように思う。
しかし「磁気的性質」ではいかにも堅苦しいし、言葉も長い。
そこで、しゃれっ気のある言葉として「スピン」が選ばれたのだろう。
あとは言葉の持つイメージがどんどん一人歩きしていったのだ。

こう思うと「量子」にせよ「スピン」にせよ、言葉の持つイメージというものは非常に大きい。
量子力学では、言葉のイメージに捕らわれることなく、
内容を柔軟にとらえることが要求されるのだ。

(さらに先の話となるが、素粒子の世界には、
アップ-ダウン、チャーム-ストレンジネス、トップ-ボトム、カラーといった、
イメージを多分にかきたてる用語がふんだんに登場する。
もちろん素粒子で言う「色」とは、我々の目に映るそれとは全然別物である。
このあたりになると、もはや他に名前の付けようがなかったので、
感性でエイヤッっと付けたのに違いない。)

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3.原子の惑星モデル

「原子」を絵に描けと言われたら、どのような図形をイメージするだろうか。
巷でよく、丸い原子核の周囲を惑星のごとく楕円軌道を周回する電子を描いた
シンボルマークを見かけることがある。
おそらくかなり多くの人が、この「惑星モデル」を思い描くのではないか。
「原子とは、言うなれば太陽系のようなものである。
太陽に相当する原子核の周囲を、惑星のように電子が回っている」と。

原子とは惑星のようなものである、そんなお話を聞かされると、
想像力がムクムクとかき立てられる。
たぶん電子は、ただ惑星のように見えるだけではない。
本当に我々の住む惑星と同じなのだ。
電子の上には、海があって、山があって、そこに小さな生き物たちが住んでいて、
その中には我々とそっくりの人間たちもいるに違いない。
我々の世界は、電子の上から見上げれば非常に大きい。
つまり、我々の世界は電子の世界から見れば、宇宙なのである。
で、その電子の世界の人間たちは何からできているのかというと、
さらに小さい原子からできているのだろう。
そしてその小さい原子の先には・・・
こうして全てがつながる。
つまり、極小の世界と、極大の世界は1つにつながっているのだ。
原子から1段階上の宇宙へ、そして原子からまた、一段階上の宇宙へと、
この構造は下にも、上にも無限に続いているに違いない。
まるで合わせ鏡のように。。。

しかし、夢を壊すようではあるが、この妄想は残念ながら当を得ていない。
なぜなら、原子の惑星モデルは、半分は正しいが、半分は実体を正しく表していないからだ。

惑星モデルの正しい半分とは、
* 中心に原子核があり、その周囲を電子が取り巻いている。
* 電子は1個、2個と数えられるカウンタブルな粒子である。
* 大きなエネルギーを持っている電子ほど、外側を回っている。
といったことである。
しかし、太陽系と原子が似ているのはここまでであって、
それ以外の点については全く別物といっていい。

惑星モデルを聞かされたとき、こんな疑問を持たなかっただろうか。
プラスの原子核の周りを、マイナスの電子が回っていたのだとしたら、
電子は螺旋軌道を描いて原子核に落っこちて行かないだろうか。
ちょうど人口衛星が大気に触れて地上に落下してゆくように。
そして、プラスとマイナスが重なったとき、
原子は大爆発を起こして消滅するのではないだろうか?
摩擦がないから電子は落下しない、という説明は、この場合成り立たない。
なぜなら電子は電荷を帯びているので、電磁波という形でエネルギーを放出できるからだ。
しかし、現に私は大爆発していない。
ということは、惑星モデルはどこか根本的なところで違っているのである。

実際には電子は雲のように原子核の周囲に分布している。
そして最も単純な1s軌道の分布は、中心の原子核付近が最も高い。
たしかに電子は中心に最も多く集まっているのだが、
そこから富士山の裾野を引くように、外側に向かって広く分布するのである。
なので、これで原子がつぶれてしまうとか、
プラスとマイナスで大爆発といったことにはならない。
(分布は重なっているのだが、現に爆発していない。)

(私自身について言えば、1s軌道の分布を確かめることによって、
原子の構造について納得した。
理科の先生方へ:パソコンで原子軌道を描いてみる、
というのはすごく納得のゆく体験となるので、ぜひ行ってほしい。
なお、電子と陽子が重なって大爆発を起こすという想像は、
これもまた裏切られることになる。
実際に電子とペアになって消滅するのは、陽子ではなく陽電子である。
これがまた、次なる妄想の種となることは言うまでもない。)

ここでさらなる誤解を招かないように注意を与えておくと、
「雲のように」という表現も、実際とはまた違う。
ふわふわした流体の電子が、富士山型の形状をとっているのではない。
しつこく言うが、電子の本当の姿は誰も見たことがないのだ。
現在主流となっている解釈では、電子雲とは「電子確率雲」なのである。
この富士山型で示される形状のどこかに電子があるのだが、
その電子が存在する一点を、ズバリと指し示すことが誰にもできないのだ。

さらに、「原子半径」という言葉も要注意だ。
1s軌道の分布を見ればわかる通り、原子にははっきりとした「大きさ」は無い。
富士山に明確な半径がないのと同じように。
ならば、原子半径とは何なのかというと、原子が分子や結晶を形作ったときに、
隣の原子とどれだけ離れているかを元に決めた実測値である。
さらに誤解を招きやすいのは「ボーア半径」だ。
極端に言えば、ボーア半径とは「一つの目安」に過ぎない。
それは「仮に電子を惑星のように見なしたときの軌道半径」なのである。
しつこく書いてきたように、本当の原子は太陽系と同じではない。
それでも、仮に太陽系と同じような計算をあてはめたとしたら、
これくらいの大きさになる、という答は出せる。
それがボーア半径である。

私たちの世界が電子と陽子(と中性子)から成り立っていると聞かされたとき、
ならば、その先はどうなっているかと思わなかったろうか。

1個の電子を取り出して2つに切断したら、その切り口はどうなっているのか?
仮に、その切り口がさらに小さな何かでできているのだとしたら、
その何かを2つに切断したとき、その切り口はどうなっているのか?
これを延々と続けてゆくと、そもそも私たちは決してゴールにたどり着けないのではないか?

ある粒子を、さらに小さな別の粒子で説明する限り、この謎は永遠に解けないはずだ。
それでは、そもそも粒子とは何か。
それは「1個2個と数え上げることができるもの」である。
別に丸いボールのような形をしている必要もないし、固くて中身がつまっている必要もない。

私たちが、そこに物体があると判断するのは、どうしてだろうか。
* 見て確かめる。
* 触って確かめる。
* 持ってみて、重さを確かめる。
などだろう。

たとえそこに物体が無かったとしても、物体が置かれたときと同じように光を反射すれば、
あたかも物体があるかのように見せかけることができるだろう。
精巧なホログラムであれば「見て確かめる」ことについては欺くことができる。

「触って確かめる」ことについても、光と似たような話が成り立つ。
たとえそこに物体が無くても、手のひらを構成している外殻の電子に反発して、
手応えを再現することができれば、実際に物体があるのとほとんど変わりはない。

重さについても、重力に対して一定の力が働けば、実体がなくても不都合は生じないだろう。

つまり、
* 光の経路をねじ曲げて、
* 手のひらを構成している外殻の電子に反発し、
* 重力場に対して一定の反応を示すことができれば、
それは立派な物体なのである。

であれば、光を曲げたり、電子を反発したりするような「力」が働いていることこそが重要なのだ。
「力が働く仕組み」さえ突き止めれば、同時に物体の存在を突き止めたことにもなるだろう。

小さな極限の謎に終止符を打つには、モノを、モノ以外の何かによって説明しなければならない。
そこで物理学のたどった道は、モノを、力の相互作用によって説明するという方法だったのだ。

実は、原子というものの中身はスカスカの隙間だらけなのだ。
原子の大きさを野球場にたとえると、
原子核はピッチャーマウントに置いたピンポン玉くらいの大きさになる。
電子の質量は陽子の1/1840なので、さしずめノミが跳ねている、といったところだろう。
(上に記したように、本当のところ「電子の大きさ」といったものは考えられない。
原子核の大きさについては、原子にアルファ線という「ボール」をぶつけてみて、
跳ね返ってくるかどうかによって確認したのだ。)

ではなぜ、これほどスカスカの原子同士は互いにすり抜けないのだろうか。
たとえばコップを手に取ろうとしても、私の手のひらはコップをすり抜けて、
つかみ取ることはできないはずではないか。
その答は「力の相互作用」にある。
コップを構成する最外殻の電子と、私の手のひらの最外殻の電子が互いに反発するので、
たとえ原子の内部がスカスカであっても手応えを感じ取ることができるのだ。

さらにここで、1s軌道の「富士山型の分布」の話を思い起こしてほしい。
たとえば富士山とは何だろうか。
山とは、地面の盛り上がった部分のことである。
そこに富士山という名の粒子があるわけではないし、
富士山頂に置かれている三角点が大地を引っ張り上げているわけでもない。
むしろ話は逆で、大地が盛り上がっている部分を、我々は富士山と呼んでいるわけだ。
そして、富士山の斜面に置いた石ころには力が働き、富士山頂から反発する方向に落ちてゆく。

これと似たようなことが、小さな粒子についてもあてはまらないだろうか。
つまり、粒子というものは、空間の中で盛り上がっている「山」のようなものなのだ。
あるいは、空間の中でへこんでいる「穴」のようなものだ。
そして「力」というものは、この空間のでっぱり、へっこみによって生じる、と考えるのである。

このようにして、モノの存在と、力の原因を空間の幾何学的な性質に帰着させれば、
「モノは何からできているか」という謎が1つ減ることになる。
この謎が解けても、ならば空間とは何なのか、という謎は依然として残るかもしれない。
それでも世界の謎に対して、一歩前進することには違いない。

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4.観測問題についての解釈

さて、以上のつまづき石を並べてみよう。

1.エネルギーはデジタルだと思ってはいけない。
2.スピンを自転だと思ってはいけない。
3.原子を太陽系のようなものだと思ってはいけない。

量子力学のつまづき石とは、要するに「xxxはいけない」なのである。
直感的なイメージは全て破棄せよ、というのだ。
これはすごくフラストレーションが溜まる。
イメージを持て、というのであれば簡単なのだが、
イメージを捨てろ、というのは全く困る。
よろしい、直感的なイメージは全て破棄しよう。
それで、捨てた先には代わりに何があるのか。
何もない。

「イメージは理解の一助となるたとえ話に過ぎない。」
「数式が全てなのです。理解するには、数学を勉強して下さい。」

ここで素人からすると、何か突き放されたような気持ちになる。
そして、イメージを持てない人は本当にわかっているのだろうか、
よくわかっていないから、数式の丸暗記で済ませたのではないだろうか、
と勘ぐってしまうわけだ。

しかし、これは別に素人に(たぶん)意地悪で言っているわけではない。
量子力学の難しさは、結局のところ
「粒子の真の姿を誰も見たことがないし、決して見ることができない」
という点に尽きる。
我々が知ることができるのは、幾つかの実験を通じて得られる、
粒子の断片的な振る舞いだけなのである。

ここに1つの限界がある。
「我々自身も粒子から構成されているので、粒子によって粒子のことを知るには限界がある」
ということなのだ。

そこから先の粒子の「真の姿」は、実験データから想像することはできるが、
あくまでもそれは「1つの想像」に過ぎない。
「真の姿」なるものは、永遠に分からないのである。

現在の量子力学(とその先の素粒子理論)は、本来ならとても想像できない姿を、
数式によってなんとかたぐり寄せている、といった状況なのである。
イメージよりも数式の方が先行しているのだ。

なので、想像を省いた正確なところだけを伝えようとするならば、
どうしても数式に頼らざるを得ない。
教える側からすれば、むしろたとえ話の方が楽であろう。
「雲のように広がっている」とか、「富士山のように盛り上がっている」とか。
しかし、極小の世界はあまりにも日常の世界とかけ離れているので、
いかなるたとえを持ってしても、事象の全てを正確に表すことができないのだ。

粒子の「真の姿」がどのようになっているのか、その想像の産物をしばし「解釈」と言う。
解釈の伴わない事象は、とっても気持ちが悪い。
数式だけがあって、その意味するところが不明なものを、果たして理解したと言えるのだろうか。
これは素人の野次馬だけでなく、かなりしっか学んだ者でさえ、泥沼に陥るものらしい。

一言アドバイスをすると「解釈の問題には、深くはまるな」ということだろう。

それは、解釈の問題が未だ科学的に解明されていない、懸賞付きの難問だからではない。
そもそも科学の問題ではないからだ。
例えば死後の世界のことが科学的には絶対にわからないのと同様に、
極小の粒子の「真の姿」も、科学的には原理的にわからないのだ。

だからといって、「真の姿」の探求を全く破棄する必要はない。
それは、個々人が自分にとって最もわかりやすいイメージを思い描けばよいのだと思う。
残念なことに(またある意味おもしろいことに)絶対に正しい唯一の解釈は存在しない。
なぜなら解釈とは、結局のところその当人の想像の産物であり、
実験によって白黒つけることができないからだ。

だから、ある1つの解釈を「正当なもの」として他人に強要するのは、あまり良い態度とは言えない。
主流であるコペンハーゲン解釈をも含めて。
また、他人の解釈をいちいちトンデモだと非難する態度も、強要するのと同じくらい、よろしくない。
もっとおおらかに、お互いの解釈を「そんなのもあるよね」と認め合っても良いのではないだろうか。

いろんな解釈を楽しむくらいの気構えでいるのが、一番よいかと思う。

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