なぜ1+1=2になるのか

1+1=?、こんな詩を見つけました。
 >> http://piapro.jp/content/ur0r6e4yddvvvifz

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1+1はなんだろな?

わかんないよ〜わかんない
わかんないから聞いてみた
1+1って答えなに?
2に決まってんじゃん、って笑われた

なんでよそんな決まってるの
だからまたまた聞いてみた
なんで1+1が2?
当たり前じゃん、って笑われた

そんなの決まってないかもよ
2じゃないかもしれないじゃん
どうして絶対2になるの?
頭おかしい、って笑われた

なんでよなんで?なんでなの?
今日も悩みは尽きません

                                                                                              • -

うむ、実に良い詩だ。
やはり数学というものは、こうでなくっちゃね!
まず、1+1=2というのは、全然当たり前のことではありません。
そして、1+1=2には、なんと証明があるのです。

* 教えてgoo : 1+1=2の証明って?
 >> http://oshiete1.goo.ne.jp/qa217225.html
* 1+1=2を証明するためには1万ステップ以上かかるよ,という話
 >> http://alohakun.blog7.fc2.com/blog-entry-956.html
* くろべえ : 1+1=2 の証明
 >> http://www.uja.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=502
* Yahoo!知恵袋 : 1+1=2を証明してください。
 >> http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011667290?fr=rcmd_chie_detail

1番目の「教えてgoo」には、こんなことが書いてありました。
「えーと、1+1=2の証明はできます。
 ただし、その証明は全部で大学ノート一冊分ぐらいになります。」

2番目のブログには、こんなことが・・・
「数学の基礎付けに関する 20 世紀の記念碑的偉業と称えられながらも,
歴史上何人がこれまで読破したのか,と常にネタにされる Principia Mathematica(12 万円,2000 ページ!)に,
1+1=2 の証明が載ってるっていうのはわりと有名な話だと思いますけど.」

そして3番目のブログ、4番目の「Yahoo!知恵袋」に、その証明がコンパクトにまとまっています。

・・・で、この証明を見て「ナルホド、納得!」って人は、もうここから先は読まなくってもいいですね。
「いや、まだまだ厳密ではない」とかのたもうている強者は、2番目のブログから20世紀の記念碑的偉業に行ってくれい。
残りのほとんどの人、「いったい1+1のどこをつつけば、こんな記号が湧いてくるのだろう?」と、ますます謎を深めている人。
そう、そんなあなたのために、1+1=2のこころを探ってみましょう。

■1+1=2にならない世界
まず、1+1=2が、全然当たり前ではないってお話を。
私たちの住んでいる時空間は(1+1=2があたりまえっていう感覚からすると)ゆがんでいて、
時速100km + 時速100km は、時速200km にはなりません。
実際には 199.99999999999829 km くらいになります。

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※ こんな計算をします
 (100 + 100) / (1 + (100x100/(光の速さ)^2)) = 200 / 1.00000000000000857 = 199.99999999999829

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えー、なんで?って聞かれても困ります。
実際に詳しく測ってみたら、そうなってたんです。
光速を超えて飛ぶロケットを作ることができない、っていう話を聞いたことがありますか?
なぜかっていうと、物体の速度は1+1=2になるのではなくて、2よりもほんのちょっと小さくなるから。
例えば、月まで行ったアポロ11号は3段式のロケットでした。
仮に、1段目のロケットを秒速5kmで打ち上げたとしましょう。
そして、2段目のロケットを、飛んでいる1段目のロケットから秒速5kmで切り離せば、
2段目のロケットのスピードは5+5=10km になるじゃないですか。
さらに、2段目のロケットから、3段目のロケットを秒速5kmで切り離せば、
3段目のスピードは5+5+5=15kmになるでしょう。
アポロはたった3段だったけれど、この調子で10段のロケットを作れば、秒速50kmで飛べるわけですよね。
ならば、いっそ豪快に1000段くらいの超巨大ロケットを作ったら、むちゃくちゃ速いですよね。
1段につき秒速5kmだったなら、6万段のスーパーロケット!で光速を超えることができるじゃないですか。
ほんとにそうなのか?
残念なことに、たとえ何万段、何億段のロケットを作っても、光の速さを超えることはできません。
その理由は、私たちが普通に思っている足し算が、スピードの足し算については成り立たないからです。
5+5=10ではなくて、10よりもほんのちょっぴり小さくなります。
1段だけだとなかなか気付かないのですが、それが100段、1000段、と重なるとだんだん効果が現れてきて、
6万段にもなると、もう1段増やしてもほとんどスピードは上がりません。
実際に6万段のロケットを作るのはすごく大変ですが、その代わりに、うんと小さい粒子をほとんど光速近くで飛ばす装置があります。
つい最近、ヨーロッパで大型加速器(HLC)という装置ができました。
あの中を飛んでいる粒子のスピードは、この「縮んでゆく足し算」で計算しているはず。
普通の足し算で計算していたら、きっと今ごろ黒コゲ(?!)になってるよ。

■数は宇宙の非常識
ということで、自然の法則ではむしろ、足し算がそのまま成り立たない方が当たり前なんです。
(もちろん、そのまま足し算でOKな自然法則もいっぱいあるんですけどね。)
だとすると、不思議なのは
「どうして人間ってやつは、1+1=2をいちばんあたりまえだと思うのだろう?」
ってことなんですね。
もし宇宙人がやってきて、人間たちの頭の中をのぞいてみたら、きっとこう言うでしょう。
「地球人という種族は、なんて奇妙な考え方をしているのだろう。
 彼らはあらゆるものに、1つ、2つ、3つ・・・という記号をあてはめているのだ。
 これを地球人の言葉では、”数える”というらしい。」
1,2,3・・・という数字が、最初から宇宙に転がっていたわけではないのですよ。
あれは人間(地球人)の発明品。
で、このことに気付いた人たちが、来るべき宇宙人とのコミュニケーションに備えて、
1,2,3・・・と数えるとは一体どういうことなのか、真剣に考え始めたんですよ。
あの「証明」ってやつは、地球人の常識を全く持たない、宇宙人向けに書かれているんですね。
「証明」がとってもわかりにくいと感じるのは、なまじ地球の常識を身につけてしまったからなんです。

■砂漠にそびえる人工世界
さらに、同じ地球人の中でも、ひょっとすると日本人は「証明」というものを感覚的に受け容れにくい人種なのではないか、
そんな風に私は思っています。
その理由は、日本人は心の中に「砂漠の風景」を持っていないからです。
(日本人、というより、これは私個人の感想ですね。)
地球上で、「宇宙の風景」に一番近いのは「砂漠」でしょう。
日本には、その「砂漠」が無い。(あるのはせいぜい鳥取砂丘くらい。)
はじめから豊かな自然に囲まれているおかげで、本当に何も無い空間に、人工的な創造物を構築する、という感覚が無いんです。
いま、世界一高いビルがドバイという都市に作られています。
ブルジュ・ドバイ -- 何もない砂漠の真ん中に、忽然と塔がそびえ立っている、といった感じです。
ビルの他にも、ドバイには世界を模した「ザ・ワールド」という人工島が作られています。
聞くところによると、次は宇宙を模した「ザ・ユニバース」を作るのだそうです。
日本人の私には、こんな強烈な発想というか、感覚が無い。
仮に私が大金持ちになったとしても、せいぜいヤシの木を植えてラクダ牧場でも作りましょう、くらいのことしか思い付きません。
無から生み出される強烈な感覚、これが日本人に欠けていると、私が感じているものなのです。
ドバイの一大事業、あれは宇宙を作ろうとしているのです、何もないところから、人間の手で。
で、ほとんど狂気の沙汰としか思えない、この巨大建造物を(テレビで)見て、「あっ、これだ!」と思いました。
砂漠にそびえる巨大な人工世界 〜 これが代数学の心象風景なんです。
代数学とは、無から、記号だけによって構築された、巨大な建造物です。
それは古えのバビロンの都のようにきらびやかで、同時に、砂漠の蜃気楼のような虚構の儚さを有しています。
(古えのバビロンの都には、バベルの塔がそびえたっていたのでしょう。それと代数学とは、無縁ではないと思うのです。)
代数学の根底には、砂漠で生まれた強烈な「宇宙創世」の感覚が流れている。
そして、海や山や、やおよろずの神々に囲まれた日本では、どうもこの感覚を受け容れることがとっても難しい。
それが私の抱いている感想です。
代数学は、もともとアラビアで、バグダットで生まれたものです。
その証拠に代数学は英語でAlgebraっていいますし(Al-はアラビア発という意味)、いま書いている数字は「アラビア数字」だし。
数学の歴史をひもとくと、二次方程式の解法は、古代バビロニアの記録に残っていたとされています。
古代バビロニアと近世につながる代数学の間には、3000年(!?)もの隔たりがあって、直接つながっているわけではありません。
それでも、これは全く私の勝手な思いこみなのですが、砂漠で培われた強烈な感覚が、かの地に2度、代数学を生み出したのだという気がしてなりません。
(もう一方の数学の源流であるギリシャが代数的な方法をとらず、幾何学に徹していたことは、後々の世界に大きな影響を及ぼしているのだと思います。
砂漠の血を引く代数学、調和を描いた幾何学、この2つが一神教多神教の流れを汲んで、最終的には現代の数学にまで溶け込んできているのです。
で、ギリシャっぽい方が何となく日本人好みだと思うのは、気のせい?)

さて、だいぶ風呂敷が広がってきましたが、要は1+1=2の証明が、いかに日本人離れしているかってことが言いたかったんです。
とりあえず、定理とは何か、とか、公理ってなんだろう、といった字面を追って行けば、本に書かれた内容を読み取ることまでは誰にでもできるはず(日本語が読めればね)。
でも、「なぜこんなことを考えたのだろう?」とか、「これを考えた人の頭の構造はどうなってんの?」といった疑問には、小手先の算術テクニックではどうしようもないんですよ。
心に「砂漠」を描かなければ。
(そういった意味で、私も理解なんかしちゃいないんです。ただ、何となく想像してるだけ。)

■「数について」ダイジェスト
さて、1+1=2の証明ですが、ここでは
 岩波文庫「数について」{デーデキント著 河野伊三郎訳}
という本のあらすじを追ってみましょう。
ちょっと難しいし、しょせんはダイジェストなので、これで全部わかろうっていうのは無理。
ザザーッと雰囲気だけ流します。(詳しく知りたい人は本を読もう。)

§1-2
「相異なる物事a,b,c,...を何らかの理由から一つの共通の見地からとらえて、頭の中で総括するということがよく起こってくる。このときこれらの物事は「集合」Sを作るという。物事a,b,c,...を集合Sの「要素」と呼び、これらはSに「含まれ」、逆にSはこれらの要素から「構成される」という。・・・」
§1-21
「一つの集合Sの「写像」φとは、一つの法則のことであって、この法則に従ってSの一つ一つの確定した要素sに確定した事物が「属し」、これをsの「像」といい、φ(s)で表す。・・・」

あらゆる言葉の中から、いちばんの基礎になると数学者が考えたのは、
 「集合」、「要素」、「含まれる」、「写像
の4つでした。
そんなのずるいよ、俺にとっては「1」っていう数や、「+」っていう概念の方が基礎になってるぞ・・・って、そう思いますか。
実は、この4つを基礎に持ってきたのは、深い思惑があってのことなんです。
これから見てゆくように、このたった4つだけの概念から「数」や「足し算」を説明することができるのですよ。
反対に、「1」っていう数や「足し算」の方を基礎にもってきたら、「集合」や「写像」の説明ができるか?
よく考えないとわかりませんが、私には思いつきません。
何をいちばんの基礎にもってくるかは、その後の全てを決めてしまう、最重要ポイントなんです。
もちろん、何を基礎に選ぶかは全くの自由で、例えば「集合でなくてはならない」っていう決まりはありません。
基礎の選び方の数だけ、説明の仕方があっていいんです。
「集合」を基礎にするやり方は、一番多くの人がやっている、一番オーソドックスな方法っていうことなんですね。

§4-36
「もしφが集合Sの相似な、または相似でない写像で、φ(s)が集合Zの部分集合ならば、φをSのZの「中へ」の写像と呼び、SはφによってZの中へ写像されたという。従って、もしφ(s)⊂Sならば、φを集合Sの「自分自身の中への」写像と呼び、本節ではこのような写像φの一般的法則を研究したい。・・・」
§4-37
「もしK'⊂Kならば、Kを「連鎖」という。」

「連鎖」っていうのは、「写像」が「自分自身の中に」入るような集合のことです。
これがなぜ連鎖なのか?
まず1回目の写像で、集合の結果は自分自身の中に入りますよね。
次に、もう1回写像をかけたとすると、その結果は再び自分自身に入ってきます。
さらに、もう1回写像をかけても、また自分自身に戻ってくる・・・こうして何度でも戻ってくるので、連鎖なんです。

§4-44
「AがSの勝手な部分集合とする。Aを部分集合とする連鎖(たとえばS)のすべてをとり、それの共通集合をA0で表す。・・・A0を「集合Aの連鎖」または単にAの連鎖と呼ぶことにしよう。・・・」
§4-59
「完全帰納法の定理 連鎖A0が或る任意の集合Σ -- これはSの部分集合でもよいし、そうでなくてもよい -- の部分集合であることを証明するためには、つぎのことを示せば足りる・
 ρ. A ⊂ Σ
 σ. A0とΣとのどの共通要素の像も、やはりΣの要素である。」

数学的帰納法を、集合の言葉で述べたものです。
 ρ. スタート地点がΣに入っていて、
 σ. そこから連鎖をたどった先も、ずっとΣに入っている、
そうすれば連鎖の全てはΣに入るはずだ、ということが言いたいわけです。

§5-64
「集合Sは、もしそれ自身の真部分集合に相似ならば、「無限」であるといい、そうでない場合にはSを「有限」集合であるという。」

この一節、私の大のお気に入りなんですよ。
無限って何でしょうか?
いまここに箱が1つあって、その箱を開けてみたら、中から外側の箱と全く同じ「相似の」箱が出てきて、その中の箱を開けてみると、中からまたまた同じ形をした箱が出てきて、その箱を開けると・・・
つまり、無限ってそういうことでしょう。
「箱の中に、全く同じ形をした箱が入っている」っていうことじゃないですか。
1つずつ、次々と取り出される無限・・・これが「数」なんです。

§6-71
「一つの集合Nは、Nを自分自身の中へ写す相似写像が存在して、その結果Nが、φ(N)に含まれない一つの要素の連鎖として現れてくるとき、「単純無限」と呼ぶ。この要素を以下には記号1で表すことにしたい。これをNの「基礎要素」と呼び、同時に単純無限集合はこの写像φによって「順序づけられる」という。・・・」
§6-73
「もし写像φによって順序づけられた単純無限集合Nの考察に当って要素の特殊な性質を全く度外視して、その区別のつくことだけを固持し、順序づける写像φによって相互につけられた関係だけを取りあげるならば、これらの要素を「自然数」または「順序数」または単に「数」と呼び、基礎要素1を「数系列」Nの基礎数と呼ぶ。要素からほかのどんな内包(内容)も取り除いたこと(抽象)を考慮すれば、数は人間精神の自由な創造だといっても正当である。・・・」

ようやく「1」が登場しました。
「1」からスタートして、連鎖をたどってゆけば、残りの全部をおおいつくすことができる・・・
というか話は逆で、あるスタート地点から出発して全体をおおいつくせる状況を考えれば、そのスタート地点が「1」のことであり、たどってゆく過程が「順序」であり、たどってゆく写像が「数える」ということだったのです。
「数は人間精神の自由な創造」、つまり、数は人間(地球人)の発明品だってことですね。

■+ってなんだろう
こうして「数とは何か」がわかったのですが、1+1=2にたどりつくには、あと「+ってなんだろな」ってことがわからないといけません。
次に、+とは何かを説明してある部分を抜き出してみます。

§6-73
「・・・一つの数nの像n'はnに「続く」数、nの次の数とも呼ばれる。」
§11-135
「・・・ここにm自身は任意の数を意味するものとする。ところが写像ψは明らかにこの数mの選び方に依存しているから、任意の数nに対応する像ψ(n)を記号m+nで表わし、この数を、数mに数nを「加える」ことによって生じた「和」または短く数m,nの和と名づける。この「加法」は従って一二六により次の条件で余すところなく確定する
 Ⅱ. m + 1 = m'
 Ⅲ. m + n' = (m + n)' 」

まず次の数を表す ' という記号を決めます。
次、というのは、連鎖を1つたどること、つまり写像を一回かけることです。
(次の数を表す記号には、普通 suc(n)という記号で書くことが多いようです。suc は successor(後者)の略。)
この ' という記号を使って、「+」という記号は2つの式でもって説明することができます。
たとえば m に 3 という数をあてはめてみると、
 Ⅱ. 3 + 1 とは、3 の次の数のこと。
 Ⅲ. 3 + (nの次の数) とは、(3 + n) の次の数のことである。
そりゃそうだ、というのはすでに「+」の意味を知っている私たち地球人だから言えること。
これはまだ「+」の意味を知らない宇宙人に向けて、「足す」とはこういうことなんだよ、と説明している式なんです。
なので、意味はわからなくても、とにかくこの2つの式にあてはまるものが「足す」ってことだと納得してください、というメッセージなのです。
「一二六により」ってところは、この本の126項目に書かれている「帰納法による決定の定理」のことです。
長いので省略しますが、要はこの2つの形式さえ決まっていれば、あとはドミノ倒しのようにして次々と決まってしまう、という意味です。

■1+1=2の証明
では、1+1=2の証明です。
  ( 1 + 1 )'
  = 1 + 1'   ・・・足し算の意味Ⅲ.
  = 1' + 1   ・・・交換法則
  = 2 + 1    ・・・数の意味、1'のことを、別の書き方で2と表記する
  = 2'     ・・・足し算の意味Ⅱ.
つまり ( 1 + 1 )' = 2' なのだから、その1つ前は 1 + 1 = 2 なのです!

ふう、ごくろうさま。
でも、よく見ると実はまだ不足している材料が残っているんです。
・交換法則 -- 足し算の順番を変えても答は同じになる、というルール。
  これにも証明があるんですが・・・もういいですよね。
  本の中では §11-136〜140 に載ってます。
・1つ前は、絶対に1個しかないのか。
  果たして ( 1 + 1 )' = 2' の1つ前の 1 + 1 = 2 だけに決まるのか、他にもあるかもしれないぞっていう疑問です。
  これが絶対1つに決まるということは §9-126〜 「帰納法による決定の定理」で述べられています。

どうして1+1=2に「大学ノート一冊分」が必要なのか、なんとなくわかってきたでしょ。
砂漠の中に塔をうち立てる、っていうのは、そういうことだったんです。
きっとこれなら宇宙人にもわかってもらえるでしょう。