なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか

アキレスと亀」という、有名なパラドックスがあります。>> wikipedia:ゼノンのパラドックス
昔、ギリシャで俊足を誇るアキレスと、足の遅い亀が競走をすることになりました。
そのままでは亀が負るのは明らかなので、亀はハンディをもらって、アキレスより前方の地点からスタートすることにしました。
位置について、ヨーイ、ドン! で競走を始めたところ・・・

こうしてアキレスは亀に追いつくことができず、亀は見事、アキレスに勝ったのだそうです。

しかし、これはどう考えてもおかしい。
もし、上の話が真実なら、速いものが遅いものを追い抜くことは絶対あり得ない、ということになってしまいます。
どこがおかしいのでしょうか?

仮に、亀の速度がアキレスの半分であったとしましょう。
そして、アキレスがヨーイ、ドンから亀のスタート地点に到達するまで(上の図でA1->T1の間に)ちょうど10秒かかったとします。
その10秒間のうちに、亀はT2の地点にまで進んでいます。
次に、アキレスが亀のいたT2の地点に到達するのには、10秒の半分の、5秒の時間がかかるでしょう。
亀の速度はアキレスの半分なので、亀が10秒かかって前進した距離を、アキレスは5秒で走破できるからです。
その次に、アキレスが亀のいたT3の地点に到達するのには、5秒の半分の2.5秒かかります。
この調子で、亀のいた地点にアキレスが到達するまでの時間は、
10秒 -> 5秒 -> 2.5秒 -> 1.25秒 -> ... と、半分の、そのまた半分の、そのまた半分、、、
といった具合に、どんどん短くなってゆきます。
半分の、そのまた半分の、そのまた半分の、そのまた半分、、、という量を、
次々に足し合わせていったら、最後にはどうなるでしょうか。

上の図を見ればわかるように、どんなに足し合わせていっても全体の1を越えることはありません。
アキレスと亀の話で言えば、10秒 + 5秒 + 2.5秒 + 1.25秒・・・は、
ちょうどアキレスが亀に追いつくはずの20秒を越えないのです。
つまり、このアキレスと亀の話は、アキレスが亀に追いつく以前の状況を
どこもまでも細かく、詳しく分割していっただけのことで、
追いついた以後の状況については何も言及していないのです。

・・・と、ここまでが一般的に普及している説明であろうと思います。
ところが、上の説明だけでは決して満足しない人たちがいます。

時間の本性

時間の本性

アキレスと亀」のパラドックスはもっとも解決が難しいものである。
B・ラッセルを初めとする解決法、すなわち無限級数の和は有限であるという数学の命題を対置するやり方は、ゼノンの問題の立て方とは微妙にすれ違ったままで、数学者たちはともかく、哲学者を納得させるには至っていない。

つまり、上の説明では哲学者は納得しない、というのです。
いったいどの辺りが納得ゆかないのでしょうか。
以下、「時間の本性」という本を読み進めてみましょう。

アキレスと亀」に登場する時間的要素は、量を持った時間ではなく「同時性」のみであり、時間の量を与える「時計」はまだ存在していない。
最小のタームしか用いないこのような原初的な舞台設定こそが、「アキレスと亀」が最強のパラドックスである理由であり、自立した量としての空間や時間が存在しないのだから、パラドックスの解決には数学は一切使えないのである。

そこで我々が手にすることのできる武器は、「地点」「時点」「運動」といった概念しかなく、「時間」「量」「数」「速さ」といった概念を使うことは許されない。

改めて、最初のアキレスと亀の話を見直してみてください。
もともとそこには「時計」が存在していないのです。
「時計」は説明する人が後から付け加えた概念であって、
元の問題には、「何秒かかった」とか、「秒速何メートルであった」といった前提は一切含まれていません。
無限級数の説明では「アキレスが亀に追いつくはずの20秒」という数字を、当然のように持ち込んでいました。
しかし、この「20秒」という数字は、
 ・秒を測る時計というものがあって、
 ・当然追い付くはずであるという答を知っていた
からこそ出てきたわけです。
これでは最初から「追い付くはずである」という結論を、何の理由も無しに押し付けただけではありませんか。
果たして、時計も無く、距離を正確に測る物差しも無く、追い付くかどうかもよくわからない状況で、
「アキレスは亀に追いつくことができる」という結論を導き出すことができるでしょうか。

もしかりに、空間や時間の「量」が単独で問題になっているのであれば、ラッセルのように無限数列の和は有限であるという数学の命題を用いることが有効であるかもしれない。
   ・・・
しかし、「アキレスと亀」はそうではない。追い付く地点は初めに与えられていないのであり、分割の全体がその内部で行われる空間があらかじめ先取りして確保されているわけではない。
   ・・・
分割の比率を数によってあらかじめ与えるのではなく、二つの運動を互いに関係づけることによってそのつど新たな時点と地点を「切り出して」みせるのが、「アキレスと亀」の議論の本質である。

おわかりでしょうか。
アキレスと亀」において、速度いくつで、何秒後に、といった道具立てを持ち出すのは、
ちょうど数学において、まだ証明されていない定理を用いるようなものなのです。
なので、無限級数の説明があったからといって「アキレスと亀」が完全解決したことにはならない。
「点」と「運動」と「同時性」のみで説明できてこそ、初めて「アキレスと亀」が解決したと言えるのではないでしょうか。

「量」の概念を一切追放して「アキレスと亀」を眺めたならば、実はこれパラドックスなどではなく、
間違ったことを言っていないのではないか・・・
次に、「アキレスと亀のお話は、実は正しい?!」という例を挙げてみたいと思います。
例に挙げるのは、√2という数の計算方法についてです。
√2という数は無理数なので、小数点で表すと1.41421356...と、どこまでも数字が無限に続いています。
この1.41421356...という数字をコンピューターで計算するには、どうするか。

上に描いたのは、ニュートン法による√2の計算方法の概念図です。
√2という数は、y = x^2 - 2 という放物線と、x軸との交点になっています。
問題は、この交点の位置をぴったり数字で求めなさい、ということです。
そこで、グラフ上の交点の近く、例えば x1 = 2 という数を出発点に選びます。
x = 2 という垂直な線と、放物線が交わった点で、放物線に接線を引きます。
そして、接線とx軸が交わった点を、x2 とします。
次に、改めて x2 を出発点として、先ほどと同じ操作を行います。
新しく接線とx軸が交わった点を、x3 とします。
この調子で、x4 -> x5 -> x6 ... と、次々に進んでいけば、どこまでも限りなく√2に近付くことができるでしょう。

では、ここで質問、「この√2の計算は、いつ終わるのでしょうか?」
よく見てください。
アキレスと亀」の話と、√2の計算方法は、全く同じ論旨ではありませんか。
√2の計算で、x1 をアキレスのスタート地点、1つ進んだ x2 を亀のスタート地点に置き換えてみてください。
「アキレスが x2 まで進む間に、亀は x3 まで進む。
 アキレスが x3 まで進む間に、亀は x4 まで進む。
 ・・・以下、この繰り返し。従って、この計算は決して有限時間内に完了することは無い。」
どこにもパラドックスは見あたらない。
現に、私たちはこれと似た論法で、√2が決して有限桁数で終わらないことを理解しているわけです。
* なぜ黄金比は美しいのか >> [id:rikunora:20090401]
同じ論法でありながら、かたや「アキレスと亀」は、有限時間内に終わるはず。
かたや√2は、有限時間内には終わらない。
この違いは、何なのか。

さらに、この主張をもう1歩進めるなら、こんなことが言えないでしょうか。

√2の計算は、一見すると無限のステップを要するように見えるが、実はそうではない。
現に、アキレスは亀に追いついているではないか。
ということは、この世の中には無限の操作を有限の時間内に終えるプロセスが存在する。
ならば、この「アキレスと亀」の原理を応用して、今日のデジタルコンピュータでは考えられなかったような、
夢の超計算機が実現できることになる。
この超計算機は、従来のデジタルコンピュータではとても不可能だった計算を、一瞬にして(有限時間内に)解いてくれる。
例えば、円周率の「真の値」も一瞬にして求まるし、NP問題だってたちどころに解ける。
超計算機に不可能は無い・・・

もし「アキレスと亀」がパラドックスであるというのなら、無限の操作を一瞬にして終える「夢の超計算機」が実現できるはずです。
それとも、今日の計算科学は全て間違いで、「アキレス型超計算機」は本当に実現できるのでしょうか?

はっきり言って、これ、超難問です。
もちろん常識的に考えれば、アキレスは亀に追いつくだろうし、超計算機は実現不可能だろうと思います。
しかし、なぜ?
哲学者の皆さんは、そこんとこ解っているのでしょうか。答があるなら教えてほしい。