二重スリットの時間反転

およそ世にある物事には、全て「逆の過程」があります。
右向きに回る車輪は、逆に、左向きにも回すこともできます。
モーターは逆に回せば発電機になるし、スピーカーは逆にマイクとして使うこともできます。
入ったものは逆にすれば取り出せる、行きの反対は帰り。
足し算の逆は引き算、掛け算の逆は割り算。
この「逆がある」という考え方を、極限まで突き詰めると、どうなるか。
この世界は、素粒子と呼ばれるたくさんの小さな粒から成り立っています。
その「世界の部品」である素粒子を調べてみると、ほぼ全ての振る舞いに「逆の過程」があるのです。
* 時間の向きを逆にしても同じこと?
>> http://www.kek.jp/newskek/2005/novdec/past_future.html

素粒子の反応では、ほとんどの場合、時間の反転(過去と未来の入れ替え)を行っても、ものごとの起こり方は変わらないことがわかっています。これを「時間反転について対称である」といいます。

だとすると、ここで1つの大きな疑問が浮かんできます。
「どうして、世界を構成する個々の部品には逆があるのに、世界全体は逆向きに動かないのか?」
もっと突き詰めて言えば、
「なぜ時間は一方の向きにしか流れないのか?」
という疑問です。
時間が一方の向きだけに流れて、決して逆向きには流れない・・・そんなの当たり前だと思いますか。
しかし物理学の中では、時間の向きの違いにはっきりした意味はありません。
ニュートン力学運動方程式に現れる時間tを、全て-tに置き換えたとしても、
置き換えた方程式は元の方程式と同じように成立します。
この事情は、電磁気学でも、相対性理論でも、量子力学でも変わりません。
物理学にとって時間の向きは、プラスでもマイナスでも、どちらでも構わないのです。
* 時間の矢--時間はなぜ未来へ``流れる''か
>> http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/timespace/node17.html
* 決定論的な時間
>> http://brownian.motion.ne.jp/11_WhyPPMisImpossible/12_DeterminateTime.html

※そんな物理学の中で、唯一、熱・統計力学という分野には、明確な時間の向きがあります。
※「エントロピー増大則」と呼ばれているのですが、これについては今回はパスします。

さて、ここからが本題。
「摩擦や散逸が全く無い状況下で、行きと帰りが違っているような現象があるか?」
はて? たった今、物理の方程式は時間がマイナスになっても変わらないと言ったばかりではないか。
なのに、行きと帰りが違うものを探せとは、これいかに。
ところがよく探してみると1つだけ、どうも物理の方程式には上手く当てはまりそうにない現象があるのです。
それは、量子力学についての現象です。
有名な二重スリットの実験を取り上げます。>> wikipedia:二重スリット実験
二重スリット実験についての説明は省略。
以下、二重スリット実験の時間を反転させたらどうなるかについて考えてみます。

二重スリットの実験で、電子が1個だけだった場合、時間を逆転させるとどうなるか。
・1個の電子が観測装置(スクリーン)から逆に飛び出してゆく。
・飛び出した電子は、どこを通ってゆくのかよくわからないが、最終的に電子を発生させた電子銃に戻る。
つまり、電子が一方の側から飛び出して、一方の側に吸収される様子が見て取れることになります。
この様子だけを見て、時間の向きについての判断が付くでしょうか。

上の図は、1個の電子が二重スリットを通過して観測装置(スクリーン)に当たる様子を描いています。
便宜的に、左から右へ向かう赤い矢印を「行き」、右から左へ向かう青い矢印を「帰り」としましょう。
行きの電子が到達する確率分布の縞模様は、赤いグラフで描かれています。
帰りの場合は青いグラフです。
この赤と青のグラフは、位置も形状も異なっています。
(青は、電子が少し斜め上方向から当たっているので。)
それでも、行きの事象が起こる確率と、帰りの事象が起こる確率は、赤と青で等しくなっているのです。
例えば、行きに到達した電子の位置が、分布の中心からちょうど1波長分の経路差だけずれていたとしましょう。
この経路を逆にたどれば、帰りの電子が到達する位置(つまり行きの出発点)も、
やはり青色の分布の上で1波長分だけずれている位置に来ることになります。
赤から見ても、青から見ても、どちらも分布の中心から1波長分だけずれた位置なのですから、
赤と青の確率は等しくなっていることでしょう。
結局のところ、ただ1個の電子を見ただけでは、時間の行きと帰りの区別は付かないのです。

次に、電子を2個に増やしてみましょう。
2個の電子が二重スリットをすり抜ける過程について、時間を逆転させたらどうなるか。
・2個の電子がそれぞれ、観測装置(スクリーン)の別々の場所から逆に飛び出してゆく。
・飛び出した電子は、どこを通ってゆくのかよくわからないが、最終的に同一の電子銃に戻る。
今度の場合、時間の向きについての判断が付くでしょうか。

上の図は、2個の電子が二重スリットを通過して観測装置(スクリーン)に当たった様子です。
この図は、ちょうど1個の電子の図を2つ重ね合わせたものになっています。
(電子-電子間の相互作用は無いものとします。
 2個の電子を1個ずつ、順番に送り出した図だと思ってください。)
確率分布の様子は電子1個の場合と同じですから、行きと帰りの確率は、やはり等しくなっているはずです。
なので一見すると、この2個の電子の図からも時間の区別は読み取れないように思えます。
ところが非常に注意深く見ると、実はこの2個の電子の図の中に、
行きと帰りのごくわずかな違いが現れているのです。
帰りの青い確率分布をよく見てください。
行きに出発しようとしている2個の電子が中央に集中しているのに対して、
2個の青い確率分布の和は、なんだか大きな範囲に広がり過ぎているように思えませんか。

それでは、電子の数をたくさんに増やしてみたら。
たくさんの電子について、二重スリット実験を時間反転させたら、こうなります。
・行き(時間の順方向)では、1カ所の電子銃から出た電子が、スクリーンに干渉縞の模様を描く。
・帰り(時間の逆方向)では、干渉縞模様の上に分布していた電子が、1カ所にまとまる。

ここで「帰り」の事象に着目してください。
スクリーン上に、縞模様に散らばっている電子を1個ずつ、2重スリットを通過させて元に戻したら、
その結果は、さらに広くスクリーン上に広く散らばるはずではないでしょうか。
上の図で言えば、明るい水色の分布になるはずです。
ところが「行き」の過程では、電子はもともと1カ所の電子銃から発せられていました。
上の図で言えば、濃い青色の分布から出発していたことになります。
この、明るい水色と、濃い青色の分布の違い、これこそが行きと帰りの違いなのです。
電子は二重スリットを通過する度に、より広く散らばってゆくはずです。
なので、1カ所に集まっていた電子が散らばることがあっても、
逆に散らばっていた電子が1カ所に集まってくることはあり得ないのです。

付け加えておくと、古典力学では決してこうはなりません。
古典力学では、もし結果としてスクリーン上に干渉縞の模様が出来たとしても、
時間を逆転させて、縞模様から逆に元来た道を正確にたどってゆけば、
全ての粒子はピタリと最初にスタートした点に戻ってくるはずです。
量子力学特有の確率的な振る舞いがあるからこそ、行きと帰りが違ってくるわけです。

というわけで、二重スリット実験は行きと帰りで違っている、つまり時間反転に対して非対称なのです。
確かに、ただ1個だけの電子という部品には、行きと帰りの区別はありませんでした。
しかし、原理的には2個以上の電子、実際にはたくさんの電子が集まってくると、
そこにはっきりとした時間の向きが現れてくるのです。

しかし、どうも腑に落ちないのは、物理の方程式との関係です。
量子力学の基本であるシュレーディンガー方程式は、時間反転に対して対象ではなかったのか。
(時刻tを-tに入れ替えると、もとの方程式の解Ψは、複素共役な解Ψ* に置き換わる)
であれば、シュレーディンガー方程式で記述できる現象は全て「行きと帰りが同じ」になるはずではないか。
・・・実は私も長いことそう思っていました。
しかし、実のところシュレーディンガー方程式は、二重スリット実験の「全てを」記述しているわけではなかったのです。
シュレーディンガー方程式を解くと、何が得られるでしょうか。
答は確率密度関数です。
二重スリット実験の場合、電子が到着する位置についての確率分布が得られます。
上の絵で言えば、赤と青で描いた分布の形状までは、方程式を解くことによって得られるわけです。
しかし実際に、その確率密度関数の中のどの点に電子があるかについて、
シュレーディンガー方程式は何も教えてくれません。
そしてこの「確率密度関数 => 実際に電子が見出された1点の位置」の間を埋めるプロセスが、
行きと帰りで同じにはなっていないのです。

確率密度関数 => 実際に電子を1点で見出すこと」
このプロセスのことを、「波動関数の収縮」と言います。
そして「波動関数の収縮」には、時間の向きがあります。
上では有名だという理由で二重スリット実験を取り上げましたが、別に二重スリットに限らず、
波動関数の収縮を含むプロセスであれば、はっきりとした時間の向きがあるのだと考えられます。
wikipedia:時間 -- 「時間の向き」より

量子力学観測問題におけるコペンハーゲン解釈では観測の瞬間に波動関数の収縮が起きるとされるが、この場合にも観測の前後で時間反転に対して非対称となる[要出典]

以下の「なんでも相談室」に、平明な説明が書かれていたので引用します。
* 現在、過去、未来を分けているモノって何ですか?
>> http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2304500.html

2)量子力学における波動関数の収縮
電子等は、ある時刻に空間の一点にいるのではなく、雲のように広がって波の様に伝播することができるが、どこにいるのか観測した瞬間に、ある空間の一点に局在して現れるということを聞かれたことがあるでしょうか。
これがいわゆる波動関数の収縮と呼ばれるもので、重ね合わせ状態を観測した際に、それに含まれる固有状態の一つが確率的に現れ、かつ観測後の固有状態から元の重ね合わせ状態に戻すことは、不可能であるとされています。
ここでは、観測前(過去)と観測後(未来)は完全に分けられており、未来から過去に状態を戻すことはできません。
この意味で時間の流れに対して非対称です。


以下では本質的な説明が為されている。。。みたいなのだが、正直私には未消化気味。よく考えてみよう。
* 量子測定の原理とその問題点(pdf)
>> http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/archive/MathSci469%282002%29.pdf