増える休日、減る苗字

もっとも新しくつけ加えられた国民の祝日は「昭和の日」。
もともとは昭和天皇誕生日だった4月29日は、天皇誕生日 -> みどりの日 -> 昭和の日 と変わっています。
みどりの日は5月4日に移りました。
ここでふと思ったのですが、休日って、だんだん増えてゆく一方なのではないでしょうか。
歴史を重ねるにつれて、記念日は増える一方です。
もし休日が増えすぎたら、どこかの休日を削れば良いのかもしれません。
でも、人の心情としては、休日を定める方向には動きやすいですが、
せっかく決めた休日を減らす方向には働きにくい。
だとすると、休日はどんどん増えてゆく傾向を持つことになります。

仮に、休日がどんどん増えていって、一年の半分以上が休日になったら、どうなるか。
サラリーマンも、子供たちも、大喜び?!
でも反対に、会社経営者や、学校の先生は、悲しく思うことでしょう。
第一、そこまで休日だらけになったら、社会が回らない。
そうなると、建前としては休日なのだが、実質的には休日では無い日、というのが出てきます。
現在でも、休日とは言いつつも、一部の人たちは休日返上で働いている。
学校でも、自主的な課外活動やクラブ活動が、実質的に休日を埋め合わせることでしょう。
そこで問題となるのは、建前としての休日を、本当に休むべきか、やっぱり休んではいけないのか、その判断です。
上司、あるいは先生に、
「休日なんだから強制はしない。自主的な判断に任せるので、やる気のある、来たい人だけ来なさい。」
と言われたときに、どうするか。
本当は休みたいのだけれど、自分だけが不在で、他のみんなが来ていたらどうしよう・・・
こうなると、空気の読み合い。
休日が「やる気の踏み絵」になってきます。
でも、年に半分以上ある休日のたびに「踏み絵」を踏んでいたのでは、それこそ神経が休まらない。
それではたまらないので、いつの間にか空気が一つ所に落ち着いてきて、
本当に休んでも良い「真の休日」と、実質的に休みではない「偽りの休日」が出現することになるでしょう。
そして、この「2重休日体制」がしばらく続いて、習慣として完全に定着すると、
今度は逆に「この、偽りの休日って、一体何なんだ?」という疑問の声が上がってきます。
その頃には「偽りの休日」は完全に意味を失っていて、正式に廃止しても、誰も気にも止めないでしょう。
かくして、休日制度は一巡して、最初の状態に戻ることになります。

全体として眺めてみれば、やはり社会運営にとって適切な休日の割合があるのだと思います。
一時的に、その割合から極端に外れるような制度が布かれたとしても、人の営みのうちに、自然にもとの割合に戻ってくる。
ただし、その変化の過程の中で、空気を読めず杓子定規に全部の休日を休んでしまったような人たちが
淘汰されることになるのでしょうけれど。

長い間に変化するもので、もう1つ私が気になっているのは、苗字の種類。
苗字って、減る一方なのではないかと。
苗字は結婚によって減ることはあっても、新しく増えることはめったに無いですよね。
だとすれば、遠い未来には、苗字は数種類に統合されてしまうのではないか。
韓国では、金さん、李さんがとっても多いのだと聞きますが、
それって苗字の統合がすごく進んでいるのでは、などと思ったりします。
* 教えて!goo -- 韓国の苗字
>> http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1422450.html
中国も人口の割に苗字が少なくて、過去に比べて減っているようです。
* 中国人の名字は4100種類、過去に2万種類が消滅
>> http://www.recordchina.co.jp/group/g5552.html
それでは、苗字の種類が極端に少なくなって、実質上2〜3種類に統合されたら、どうなるか。
きっと苗字の少なさを補うために、何らかの補助的な名前が付くことなるでしょう。
ミドルネームとか、字名(あざな)とか、あだ名とか、敬称といったものです。
やがて、ほとんど役に立たなくなった本来の苗字は形骸化していって、
後から付け足した字名に席を譲ってゆくのではないでしょうか。
かくして、休日で考えたような「世代交代」が、苗字の世界にも起こる可能性があります。
それって、ホンマかいな?
残念ながら、苗字の1サイクルが経過したという史実を、私は知りません。
中国の長い歴史でも現在進行中のことなので、すごーく気の長い話であることは確かでしょうけれど。

長期に渡って世代交代するものの1つに「言葉」があります。
ただし、全ての言葉が一斉に世代交代するわけではなくて、交代の早いものと、遅いものがあるようです。

言葉には命の長いものと、命の短いものとがある。
「もの」「こと(事)」「目」「口」「手」「足」「取る」「見る」「来る」というような言葉は、
日本語の記録がある最も古い時代から、ずっと命長く使われてきた言葉である。
・・・もう1つ、寿命の短い言葉に、副詞がある。
副詞とは「はなはだおもしろくない」とか、「かならず行きたい」とか、「ひたすら勉強する」とかの、
「はななだ」「かならず」「ひたすら」のような言葉をいう。
これらもあまり長い間もたず、新しく使い出される言葉にとってかわられることが少なくない。
    -- 新潮文庫「日本語の年輪」より抜粋

特に世代交代が激しいのは、最上級を意味する強めの言葉でしょう。
「とても」や「いと」、英語で言えば「very」。
「チョー(超)」や「やばいっス」、「激ヤバ」なんかは、新参者として記憶に新しいですよね。
強めの言葉って、すぐにインフレ起こすじゃないですか。
みんなが「超すげー、超すげー」って言っているうちに、すぐに陳腐化して、ありふれたダサイ表現に堕してしまう。
Super、Hyper、Ultra、Extra ・・・(これってどの順番だか分かりますか?)
まるで少年マンガに次々と登場する新手の強敵(?!)のように、より強い、新規な表現が求められ続けるのです。

この世にインフレを起こすものは、主に2つあります。
1つは言葉、もう1つはお金です。
この2つには、どちらも実体がありません。
そして、どちらも実体に対して人が付けたものである、という共通点を持ちます。
実体が無いゆえ、人の扱い方1つ、気持ち1つで、実体に対して如何様にでも伸び縮みさせることができる。
だからインフレを起こせるのです。
世界中を流れているお金の総量に着目したとき、お金が増えることはあっても、
減ることはめったに無いのではないか、と思います。
増える方は、貨幣の発行と、利子によって、放っておいても自然に増える。
一方、減る方は、お金をドブにでも捨てない限り、減らない。
だとすれば、地上のお金は増える一方ということになります。
(借金未払いによってお金が減るのではないか? ・・・と、最初は思ったのですが、
 よくよく考えてみると、別人の手に渡るだけで、お金そのものは減りませんよね)
実体に対して、お金だけが極端に増えていったら、どうなるか。
単純に考えれば「チョーインフレ」になるのでしょうが、
私はここで、休日について想像したのと似たようなことが起こるのではないかと思っています。
社会にとって適切な休日の割合があるように、お金についても実体に対して適切な割合というものがあるでしょう。
その割合を超えて、お金ばかりが極端に増えても困りますから、
実際に世の中を回す人たちは何らかの現実的な方法で対処すると思うのです。
それは「偽りの休日」のように、本音とタテマエの上手な使い分けなのかもしれません。
あるいはウェットな人間関係だったり、お金以外のサービスや活動なのかもしれません。
とにかく何らかの調整努力を続けているうちに、いつしか「世代交代」が起こって、
また元の適切な割合に戻ってくることでしょう。
ただし、その過程で調整努力を怠った人たちは、淘汰されることになる。
つい言葉通りに、「全ての休日を休んでしまった人たち」のように。。。