夢のバックトラック時間

夢とは不思議なものです。
中でも特に不思議なのは、夢の中で感じられる時間の経過についてだと思います。
夢はあやふやなイメージの断片から構成されています。(私の夢はそうなっています)
そして私の場合、そのイメージの断片が時間の順序に沿って整然と一列には並んでいないように思えるのです。
では、どのような順番に並んでいるのか。
うまく言えないのですが、どうも時間を行ったり戻ったりしながら、ストーリーのつじつまを合わせつつ進行しているようです。
例えば、夢の中でいつものように会社に行くと、そこにはもう何年も合っていない古い友人がいたりする。
そして、そのまま何気なく日常をスタートするのですが、ふと、
「あれっ、よく考えると、あいつがこの会社にいるのは変じゃないか?」
ということに気付きます。
すると、気付いた時点で時間の巻き戻しが起こって、その友人が居ても不自然ではない学校の風景にチェンジして、そこから夢が再スタートするのです。
夢全体としては整合性がとれていないのですが、「友人->学校」というその部分だけはつじつまが合っている。
そんな風に、部分的につじつまを合わせつつ、夢は進行するように思えます。

あるいは、どうしても起きなければならない朝に、体は寝ているのに、夢の中で心だけが朝の行動を先取りする、といったことがあります。
夢の中で、起きて、顔洗って、朝ご飯たべて、さあドアから出よう、というところで、何かがおかしい。
「あれっ、玄関に靴が無い? 出られないぞ、何か変だ・・・」
で、ここで夢の中での時間の巻き戻しが起こって、再び顔を洗うところまで戻る。
あまり何度も巻き戻しを繰り返していると、本当に遅刻することになります。

夢とは、不条理と整合性のせめぎ合いです。
不条理が勝手に進行する。
しばらくすると、理性がおかしなことに気付いて、部分的に不条理を修正する。
そこで、「やっぱり今のは無し」といったキャンセルが生じる。
ここで「時間の巻き戻し」が起こる。
夢は巻き戻された地点から、部分的に修正された新たなシナリオで再スタートする。
目が覚めるまで、この繰り返し。
夢の中の時間経過は、一列に、順序よく進行するのではありません。
ちょうど迷路の中を手探りで進むように、進んでは壁にぶつかって戻り、進んでは戻り、を繰り返しているようです。
(以上は私の夢の時間なのですが、他の人の夢は、いったいどのように進行しているのでしょうか?
 機会があれば尋ねてみたいものです。)

さて、夢の中の時間がとってもあやふやだということは良いとして、それでは、目が覚めているときの時間の経過についてはどうでしょうか。
目が覚めていて、意識がはっきりしているときであれば、時間は、当然のごとく一列に、順序よく進行している。
本当にそうですか?
夢の中ほど顕著ではないのですが、もっと短い時間内で、一瞬だけ「時間の巻き戻し」が起こることってありませんか。
例えば反射的な行動。
熱いヤカンに、それとは知らずに触ってしまったとき、先に手がひっこんでから、後から「熱い」と感じとっていないでしょうか。
弁慶の泣き所をぶつけて、先に足をひっこめて丸くなってから、「くるぞ、くるぞ」と思っていると、後からじーんと痛みが伝わってくるとか。
ついカッとなって、先に手が出てから、あとで怒りが湧く。
反射的に防いでから、後で怖かったと感じる。
うんと短い時間内では、行動の方が感情よりも先に来ているんです。
では、その「うんと短い時間」とは、具体的にどれくらいの長さなのでしょうか。
答えは約0.5秒。
この0.5秒という数字は、目や耳や皮膚など、体のセンサーが信号をキャッチしてから、脳が情報処理を行うまでにかかる時間なのです。
体のセンサーや神経、脳とて物理的実在です。
瞬時に情報処理を行っているわけではありません。
実際、神経の伝達速度は電気式のコンピューターよりずっと遅いのです。
もし信号が脳に達するまでに、常に0.5秒かかっているとしたら、どういうことになるか。
 「本当の世界は、我々が感じ取る0.5秒前に存在している。」
 「我々は0.5秒後の世界を認識している」ということです。
反射は脳に達するより先に起こるので、反射と脳の認識の間で時間の逆転が生じるわけです。
0.5秒といえば、決して無視できない長さの時間ですよ。
もし映画の映像と音声が0.5秒ずれていたら、誰でも気付くはず。
これほど大きなタイムラグがありながら、なぜ私たちはほとんど気にせずに日常を過ごすことができるのか。
その答は驚くべきものです。
 「私たちは、0.5秒後に、0.5秒前の世界のつじつま合わせを行っている。」
意識は、0.5秒前にある本当の世界で起こったことを、後付で解釈しているんです。
たとえ0.5秒のタイムラグがあったとしても、あたかもそれが無かったかのように調整してから、整合性のとれた「事実」として受け容れている。
なので、最初の0.5秒間に起こったことを詳しく調べれば、思わぬ「真実」に遭遇するわけです。

以上の「0.5秒後の意識」というお話を、私は『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』という本で知りました。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

この本、分厚い大著ですが、それに見合うだけの衝撃の内容です。ぜひ一度ご覧あれ。

さて、この0.5秒後のつじつま合わせのメカニズム、先に挙げた「夢の中の時間経過」に似てませんか?
夢の中であっても、覚醒時であっても、どちらも同じ脳が行う現実把握でしょう。
覚醒時には、夢の中で起こっている時間の巻き戻しが、素速く0.5秒以内に行われている。
私たちは時間というものを、単純な一直線として感じ取っているのではなくて、
細かく行ったり来たりを繰り返しつつ、整合性をとって感じ取っているのではないでしょうか。

ここまでは人間が時間をどのように感じるか、というお話でした。
それでは、人間の感覚を抜きにした物理的な時間の経過は、どのようになっているのでしょうか。
時間を表すとき、私たちはまず一本の直線を引いて、その上に何年何月、何時何分といった目盛りを刻むことと思います。
つまり物理的な時間とは一本の物差しのように、ものごとが一列に整然と並んだものだと考えているわけです。
相対論の世界では、物差しに刻まれた目盛りが伸びたり縮んだりすることがあります。
それでも、たとえ相対論の世界であっても「一列に順序よく並んでいる」という性質は保たれたままです。
時間の順序がねじ曲げられるのは人間の感覚の為せる業で、やはり物理的な時間は一列に整然と流れているのでしょうか。
ところが、この整然と流れる時間に対して疑問を投げかける現象があります。
それは、量子の世界の現象です。
量子力学の世界で、最も解釈に苦しむのは「粒子の確率的な存在」についてでしょう。
量子の世界で直感に反する粒子の振る舞いを、端的に示すのが2重スリットの問題。
>> wikipedia:二重スリット実験
1個の電子を、2つの狭い隙間の空いている壁の向こう側にある写真乾板にぶつけてみる。
多数の電子がぶつかった跡は、濃淡のある干渉縞になります。
問題なのは、電子を1個ずつバラバラに飛ばしていっても、やはり同じような干渉縞が得られるということ。
1個だけの電子は、常識的に考えれば2つの狭い隙間のどちらか一方を通り抜けているはずでしょう。
ならば、なぜ電子は残るもう一方の、通り抜けなかった方の隙間の干渉を受けるのでしょうか。
この問題は、いまのところ「物理的に観測する手段が無い」ということで、様々な解釈を生んできました。
どのみち真実は確かめようがないでしょうから、ここでもう1つ、新しい解釈を付け加えてみます。
そもそも時間が一列に順序よく、原因->結果の連鎖によって成り立っていると思うから、量子の振る舞いが不思議に思えるのです。
夢の中の時間のように、行ったり巻き戻したりしながら、最後につじつま合わせをしているのだと考えればどうでしょうか。
電子は、まず2つあるうちの一方の隙間をすり抜ける。
そして、とりあえず写真乾板まで達してみるのですが、達したところで何かが足りないことに「気付く」。
そこで時間を巻き戻して、今度はもう一方の、別の隙間を通り抜けて写真乾板に達する。
最後に、写真乾板に達したところで、2つの経路の「つじつまを合わせて」最も整合性がとれる場所に跡を残す。
このように、物理的な時間の流れ自体が後からつじつま合わせを行っているのだと考えれば、何ら不思議は無いはずです。

そもそも、なぜ物理法則というものは、これほどまでにキチンと守られているのでしょうか。
当たり前と言ってしまえばそれまでですが、たまには破れたっていいのではないかと、私はときどき思うことがあります。
例えば、物理の基本原理の1つに「最小作用の原理」というものがあります。
>> wikipedia:最小作用の原理
物体が運動する経路には様々なものが考えられるが、実際に実現するのは、ある作用量を最小にするものである、といった法則です。
ここで私が不思議に思うのは、
 「どうして物体は運動する前に、あらかじめ作用が最小になるような答の道筋を知っているのだろうか」
ということです。
そこで何となく思い至ったのが、実は物体も間違うことがあるのだ、という考え方。
うんと細かく見れば、物体は物理法則を守ってなんかいないんです。
まず、でたらめに運動してみる。
そして、でたらめな経路を一本引いたところで、時間を巻き戻して、今度は別の経路で運動してみる。
そうやって何度も運動を繰り返した後で、最後につじつま合わせを行って、最も整合性がとれている運動だけを現実に残す。
かくして結果だけを見れば、きちんと法則にのっとった運動だけが生き残ることになります。
時間が行ったり来たりしながらトライアンドエラーを繰り返している、という考え方は、
どうも「最小作用の原理」の理解に馴染みが良いように思えるのです。
果たしてこんなトライアンドエラーが本当に繰り返されているのか、実のところ確かめようがありません。
いまこの瞬間、時間の流れがいったん停止して、再び動き出したのだとしても、そのことを誰も知ることができないでしょう。
なので、こんなことを真剣に議論しても、しょせんは不毛な水掛論なんです・・・
ただ、1つの考え方としてはおもしろいと思うので、私は半分くらいまで、時間は行ったり来たりするものだと信じてますよ。

物理の法則通り正確無比に運動するこの宇宙は、1つの巨大なコンピューターなのだ、という考え方があります。
確かに、あらゆる物理現象は情報処理の側面を持ち合わせています。
なので、物理現象を組み合わせた宇宙は、情報処理を組み合わせた巨大なコンピューターなのだと言ってもあながち間違いではありません。
ところで、この世で情報処理を行う仕掛けは、何もコンピューターだけではありません。
自然の作り出したコンピューター、私たちの脳も、1つの立派な情報処理機構です。
してみれば、宇宙は1つの巨大な脳なのだと言い換えても、あながち間違いではない、ということになります。
この世に起こることは全て、宇宙という巨大な脳が織り成す夢なのかもしれません。
そして、その夢の中で進行するあらゆる事象は、私たちが見る夢と同じように、行ったり来たりを繰り返しながら、つじつまを合わせつつ進行しているのであろう・・・
うーむ、これこそ妄想と呼ぶにふさわしい。