はまりの構造

「はまり」とは・・・
一度小さな変位が生じると、それが拡大する方向に加速的な力が働き、もとに戻ろうとする復元力が効かなくなること。

古代マヤ文明では、太陽神に生贄を捧げる儀式が行われていました。
時代によっては、ほぼ毎日のように生贄が捧げられていたようです。
現代文明から見れば、とても信じられない話です。
マヤ文明に生きた人達とて、やはり死ぬのは怖いか、少なくとも痛くて嫌だったろうと思うのですが、
なぜ彼らは「もう生け贄は止めよう」と言い出さなかったのでしょうか。
それは、試しに生け贄を止めてみることができなかったからです。
太陽が輝き、雨が降って、こうして世界が存在していられるのは、生け贄を捧げているからだ。
そのようにマヤ人は考えていました。
この考えが正しいか間違っているか、確かめる手段は、試しに生け贄を止めてみるしかありません。
試しに止めてみて、それでも変わらずに世界が存在したならば、生け贄という考え方は間違っていたことが判明します。
しかし、もし試しに止めてみて、それで本当に世界が滅びてしまったら?
もう取り返しがつきません。
試すにしては、あまりにも危険が大き過ぎるのです。
なので、結局マヤ文明が滅び去るまで、生け贄の儀式はどうしても止めることができなかったのです。

「文芸百物語」という本に「奈良のオシラサマの話」というのが載っていました。
オシラサマといえば遠野が有名ですが、実は奈良のある地方にもオシラサマがあるのだそうです。
そのオシラサマは、持ち回りで家から家へと渡していくのですが、
 ・渡すところを、決して人に見られてはいけない。
 ・自分の家にオシラサマが在ることを口外すると、呪われる。
のだそうです。
なので、このオシラサマが存在することも、今どこにあるかも、決して外からはわかりません。
それでも、奈良のその地方では、ずっと昔からオシラサマが家から家へと渡り継がれているのだそうです。
本当か嘘か、私は知りません。
仮に知っていたとしても、絶対に口外しないですね、呪われますから。

この世には「死ぬほど怖い怪談」というものがあります。
その怪談は、あまりにも恐ろしいので、話を聞いただけで正気が保てなくなります。
で、当然その怪談を思い付いた当人も、あまりの恐ろしさに気が狂れてしまうわけです。
天才的な作家、例えば芥川龍之介なんかが自殺したのは、この怪談を思い付いてしまったからではないかと・・・
なので、この怪談がきちんとした文章になって世に出ることはありません。

自殺者の心理は、原理的に絶対わからないはずです。
なぜなら、自殺者の心理を完全に理解した時点で、その人は死んでしまうからです。
(唯一、自殺未遂で生還した人だけが理解できる、ということになります。)
同様に、犯罪を犯した人間以外には、犯罪者の心理というものもわからないはず。
「うん、うん、その気持ちよくわかるよ」と、安易にあいずちをうつ人。
それぜったいウソだからね。

先の怪談の他にも、世に出ないお話があります。
その本のタイトルは「怠惰総論--人類を動かさない負の原動力」というものです。
いいタイトルでしょ。
実は、この本の著者にふさわしいのは私であろうと、ずいぶん以前から構想を温めてはいるのですが、実際の執筆は一行も進んでいません。
なぜか。
それは、とりもなおさず私が怠惰だからです。
そもそも、世に本を出そうなどと考える人は、とっても勤勉な人です。
そんな人が、怠惰について正しく書けるはずがありません。
なので、世に出回っている本を集めてくると、それは必ずや勤勉な色調で彩られることになります。
同様に、本当に「頭の悪い本」というのも、なかなか世に出てきません。
以上は本に限ったことではなく、ブログから日常会話に至るまで、あらゆる表現にあてはまるような気がします。

新人イビリは、構造的に止むことがありません。
なぜなら、新人はやがて先輩になるから。
自分が先輩になったときに、過去を思い出しつつ、次の新人に同じことをする。
だから、この習慣は連綿と続いて止むことがない。
似たようなことが「帝国対連合」という構図の中に見られます。
多数の国家の中で一番大きな国、あるいは業界最王手といった、いわゆるNo.1が、No.2以下に対して採る戦略とは、どういったものになるでしょうか。
No.1が最も恐れることは、No.2以下が一致団結してNo.1の力を凌駕することです。
なので、たいていの場合、No.1は、No.2以下の横の団結を防ぐ方針を採ります。
No.1の力を利用して自らを業界標準とし、話し合いや決め事は、必ず「業界標準」の中で行う方針を打ち出す。
業界標準」は一見するととってもオープンに見えますが、よく見るとNo.1を介さずに、No.2以下の連合が不可能な作りになっています。
それに対してNo.2以下が採る方針は、自由とオープンを歌って、あらゆるプレイヤーが等しく公平に参加できる「公共の場」を作ることになります。
かくして「帝国」と「連合」が形作られます。
これ、業界地図なんかにあてはめてみると、それなりに当たってますよ。
具体的にどの会社とは言いませんけど。
で、激しい争いの結果、No.2以下連合が勝利を収めて、No.1に取って代わったとしましょう。
すると何が起こるか。
いままでNo.2だったものがNo.1になると、手のひらを返したようにNo.1と同じ方針を採るようになります。
いざ自分がNo.1の立場に立ってみると、はじめてNo.1のやってきたことが良くわかるのですね。
子供が大きくなって、いざ親になってみると、ほとんどの場合、かつて親がやってきたことを自分の子供に対して行うことになります。
これって、いつまでたっても終わらない連鎖なんです。

相互監視の罠。
その昔学校の旅行で、クラスの友人と同じ1つの部屋で一夜を明かすことになりました。
そんな夜は、興奮して眠れるはずがありません。
さんざん騒いだあげく、そろそろみんなが眠くなってきた頃に、誰かがこんなことを言い出しました。
 「最初に眠ったやつには、マジックで落書きするぞ!」
この一言が効きました。
ウトウトして眠くなると、近くの誰かがマジックを持ってソ〜っと近づいてくるんですね。
どんなに眠くても、絶対最初の一人にはなれない。
かくして、全員徹夜しました。

規則は増える一方・・・ですね。
問題が起こるたび、あるいは効率化といったことで、新たな規則が1つ作られます。
規則が生み出される機会は多々あるのですが、その一方で廃止する機会というものは滅多にありません。
かくして単純に、規則はどんどん増えてゆきます。

最後に、現代人が一番ドツボにはまっているのが、マネーゲーム
マネーゲームをどう思うかは人それぞれでしょうが、抜け出せないという点では、生け贄を捧げ続けたマヤ人とほとんど変わらないように思えます。
現代人は、古代マヤ人愚かなりと笑えないぞ。


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※ このマヤ文明の話、決して私の独創なんかではなく、人づてに聞いた話です。
※ たぶんどこかに似たような話が書かれれているのだと思います。
※ 最初に聞かされたときは、ナルホドと納得しましたよ。
※ もし話の出所がわかれば、どうぞご一報ください。