新説受け入れ確率

平均して100人に1人がかかる病気があったとします。
この病気にかかったどうかの判断は難しくて、100人に1人は間違って診断されてしまいます。
つまり、
・健康であるにもかかわらず、誤って病気であると判定されるのが100人に1人、
・病気であるにもかかわらず、誤って健康であると判定されるのが100人に1人、
ということです。
さて、いまあなたが「この病気にかかっている」と診断されたとします。
このとき、あなたが本当に病気にかかっている確率はどのくらいでしょうか?

100人に1人間違うのだから、99%かな?
・・・残念ながら、それは当を得ていません。
この図を見てください。

この図の正方形全体は、健康な人、病気にかかった人を合わせた全員を表しています。
図の縦(水平線による分割)は、本当に病気にかかっているかどうかの区分です。
図の横(垂直線による分割)は、正しい診断が為されたかどうかの区分です。
この図を見ると、
・本当に病気にかかっていて、かつ正しく病気であると診断されるのは、左下の細長い長方形。
・健康でありながら、間違って病気だと診断されるのは、右横の細長い長方形。
2つの長方形の面積は(この設問では)同じですから、
答は「1/2の確率で本当に病気にかかっている」ということです。

たとえ難病と診断されたとしても、不確実なうちはあまり結果を鵜呑みにしてはいけない、ということですね。
このお話は病気ばかりではなく、他のものごとにも応用することができるでしょう。
例えば、現時点では海の物とも山の物とも付かない「未知の新説・仮説」に対して、
正しいか間違っているか判断を下す、といった状況です。
「未知の新説・仮説」というものは、そう簡単に出てくるものではありません。
100人に1人、あるいは千人、1万人に1人といった小さな確率で登場するものでしょう。
そしてそれが新しい考え方を含んでいるのであれば、正誤の判断はとても難しくなります。
いま、1万人に1人しか思い付かないような新説があったとして、それがいかにも本物らしく見えたのだとしましょう。
このとき、新説が正しく本物である確率は、ざっと半分程度なのです。
しかも、図を見るとわかるのですが、ざっと半分になるのは正誤の判断を1/10000の精度で行ったときの話です。
実際の判断の精度は、もっと悪いでしょう。
もし判断精度が悪ければ、図で言えば(誤)と書いてある縦の幅が広くなれば、正しく本物である確率はますます低くなります。
仮に判断精度が1/10であれば、
 正しく本物である確率 = (1x9000) / (1x9000 + 1000x9999) = 約0.0009 = 0.09%
ということになりますね。
わずか 0.09%。
「もっともらしく見える新説が、本当に正しいという確率」
この数字がいかに小さいものであるか、おわかりでしょうか。

以上が
・科学者が慎重になる理由
・新説に対して世間が冷たい理由
です。
世間では、新規な考え方というものに対して、とりあえず「怪しげ、トンデモ」のレッテルが貼られます。
そしてそれは、よほどの目利きでない限り正しい判断なのです。

正誤判断の精度には2種類あります。
病気の例えで言えば、
1.健康であるにもかかわらず、誤って病気であると判定される確率。
2.病気であるにもかかわらず、誤って健康であると判定される確率。
の2種類です。
それでは、全体としての誤りを少なくしたかったとき、1.と2.のどちらの精度を高めた方が、より効果が上がるでしょうか。

図を見れば分かる通り、1.の方が効果が大きいのです。
健康な人の方が圧倒的に数が多いのですから、健康な人の誤診を少なくした方が、全体としての誤りは減るわけですね。
ということは、判断基準をより慎重に、厳しめに設定せよ、ということです。
事態が希少であればあるほど、判断基準はより厳しくすべきなのです。
この考え方を「新説」にあてはめてみると、「その説の持つ新規性に合わせて、判断基準を上げるべし」となります。
100に1つの新説よりも、1万に1つの新説の方が、判断基準が100倍厳しくなる、ということです。
逆に、2つに1つ程度のありふれた発想であれば、上の1.と2.の差はありません。
その場合、判断基準をあえて厳しくする必要はないわけです。

そうは言っても、いたずらに判断基準を厳しく引き上げていったのでは、事なかれ主義に陥ってしまいます。
ほんのわずかの確率で落ちているのがチャンスなのであって、チャンスに目をつぶっていたのでは、未来は開けません。
新説を判断する側ではなく、提唱する側に立った場合、どうすれば世の中に受け容れられやすくなるでしょうか。
最も効果的な方法は「小出しに分割する」ことです。
例えばその新説が、現在から見て10の飛躍があった場合、いっぺんに10の飛躍を行うのではなく、5+5の2回に分割するのです。
なぜ「飛躍の分割」が有効なのか。
それは、受け手から見た場合、新説を受け容れる困難は、飛躍の大きさの2乗に比例するからです。
まず、(a)飛躍そのものを受け容れるのが困難であり、
そして、(b)飛躍が大きいものに対しては、それだけ判断基準が厳しくなります。
結果として、受け容れの困難度合いは (a) x (b) で、飛躍の2乗に比例するわけです。
もし10の飛躍を1回で行えば、それに伴う困難は 10x10=100 となります。
それを2回に分割できれば、困難は 5x5 + 5x5 = 50 となり、トータルで半分に減ることになります。
さらに、10回に分割できたとすれば、1x1+1x1+1x1+1x1+1x1+1x1+1x1+1x1+1x1+1x1=10 なので、困難は1/10です。
つまり、新説を提唱するときは、分割すればするほど有利ということですね。
ローンの逆です。
学問が組織化されればされるほど、1回に発表される新説の飛躍は「小粒」になる傾向にあります。
その理由は、決して人間の精神的スケールが小さくなったわけではなくて、上に記したような事情によるものだと思います。

「新説」なんて、ごく一部の好き者が持ち出すマイナーな話題だと思いますか。
それでは、同じ事を「説得術」にあてはめてみてはいかがでしょうか。
いきなり10のものを提示したらドン引きであっても、1つずつ順番に出してゆけば通る、ということ。
どうしても謝らなければならない事情であるとか、女性(あるいは男性)を説得する場面であるとか。
(私自身はどちらもあまり得意ではありませんが。)
説得の上手い人の話し方をよく聞いてみると、「小さなステップを順番に刻んでいる」ことに気付くでしょう。
あるいは、映画やゲームなんかだと、あまりにも前衛的な内容よりも「半歩進んだ」くらいを続けて出していった方が、トータルでの受け容れは大きいことになります。
もっともこれは、最初から連作が見込めるようなゆとりがある場合に限っての話でしょうけれど。

しかし世の中には、小さく刻もうとしても、それ以上細かいステップには分割できない一塊の飛躍、というものもあるかと思います。
そういった巨大な飛躍は、針の穴のように小さな確率を通り抜けることでしか為し得ないのでしょう。
現実には滅多に無いのでしょうが、それでもいつの日か、巨大な飛躍に巡り会えることを期待するのも、また人情というものです。
夢は大きく、現実は小さなステップで。