敗者復活の効率は高い

およそ物質というものは、混ぜるのは簡単ですが、分けるのは難しいものです。
ずいぶん昔、学生の頃に化学の実験というものをやったことがあります。
薬品を混ぜたり沸騰させたりするやつです。
それで実感したのですが、化学合成で一番たいへんなのは、できた化合物をきれいに精製する過程なんですね。
ほとんどの化学反応は、フラスコの中に目的とする化合物と、それ以外の不要な物質がゴチャゴチャっと混じった状態で終了します。
この中から目的とする物質だけをきれいな形で取り出したい。
そのために、蒸留とか、再結晶などといったいろんな精製テクニックがあるわけです。

たとえば蒸留というテクニックを使って、水の中からアルコールだけを濃くして取り出すことができます。
ただ、1回の蒸留で水100%とアルコール100%に完全に分離するのかというと、そんなことはない。
もし100%完全に分離したならば、蒸留酒というものはできないでしょう。
実際には、蒸発させた先ではアルコールが濃くなって、蒸発せずに残った方には水が多くなる、といった感じになります。
なので、水とアルコールを100%近く完全に分離しようと思ったら、大変です。
何度も何度も蒸留を繰り返すか、最後には乾燥剤を入れてアルコールから水分を除去する、などといった手間をかけねばなりません。
物質にもよりますが、たいていの場合、きれいに分けるって作業は一苦労なんです。

なぜ分離するのが難しいのか。
下のグラフを見てください。

参考:wikipedia:マクスウェル分布
このグラフは、たくさんの化合物の分子が、どれだけの速度で飛び回っているかを描いたものです。
横軸が分子の速度 x 縦軸が分子の数。
グラフから、高速な分子ほど数がだんだんに少なくなってゆく、ということが読み取れると思います。
速度の分布は化合物によって変わってきます。
2つの異なる化合物 a と b があったなら、グラフは上の図にあるような広がりの異なる2本の線になります。
a が水で、b がアルコールのようなものだと思ってください。
(本当の水とアルコールには、もう少し複雑な因子が絡んできます。これはうんと単純化したグラフです。)
蒸留などの化合物の分離操作は、このグラフ上の適切な位置にエイヤッと縦線を引いて、
右半分の”勝ち組”と左半分の”負け組”にクラス分けすることなんですね。
見ればわかる通り、どこに縦線を引いても、完璧に100%分離することはできません。
右側にも、左側にも、どうしても不純物が混じり込んでしまいます。
もう少し注意して見ると、
 ・縦線を入れる敷居値を高く設定すれば、右側の”勝ち組側”ではかなりの高純度で物質を取り出すことができる。
 ・一方、左側の”負け組側”の純度を上げることは難しく、どうしてもかなりの割合で不純物が混じり込む。
ということがわかります。
なので、化学合成では(よほどの高純度を求められるのでなければ)何度か蒸留を繰り返したり、再結晶を繰り返したりして、
いったん”負け組側”にこぼれた化合物を回収して収量を上げる工夫をしています。

さて、幸か不幸か、私たちの生きている社会では、人間の集団を何らかの属性に基づいて分離しなければならない状況が多々あります。
しかも、その分離結果が、人生を左右する重要ポイントとなることも少なくない。
人間は化合物ほど単純ではありませんが、第一近似として、化合物の分離と同じ法則があてはまる気がします。
その筆頭に挙がるのが、次の法則。
 ・敷居値が高い場合、勝ち組側に不純物が混じっている可能性は低い。
 ・逆に、負け組側にはかなりの頻度で不純物が混じっている。
ぶっちゃけて言うと、
 ・難しい試験にパスした場合、それは実力である可能性が高い。
 ・一方、試験に落ちたからといって、必ずしも実力が無いわけではない(あるいは実力があっても落ちる可能性がある)
ということです。
単純ですが、これは経験的にも当たっている気がします。

そこで問題となるのは、「実力があって落ちた人間を、いかに拾い上げるか」ということになります。
化合物であれば2回目の再結晶、人間で言えば敗者復活の場です。
よく「日本の社会は、一度レールを踏み外すと、二度と戻ってこれない」と言われます。
もしこれが本当だったなら、敗者復活はただの温情処置などではなく、最も合理的な選択肢になるはずです。
仮にあなたが会社の社長(あるいは人事担当者)だったとしましょう。
すでに「勝ち」が証明されている方のグループからは、人材を採ってくるのも維持するのも大変です。
一方、もし「勝ち」が証明されていない中にも実力者が埋もれているのであれば、
そっちから人材を採ってきた方が、比較的小さな労力で大きな成果が期待できるでしょう。
その場合、一発で人間の可能性を見極めるような「目利き」は必ずしも必要ではありません。
そもそも一発の分離でのとりこぼしを、長時間にわたる、何度もの再評価で拾い集めるのがねらいだからです。
社会に欠けている(と言われている)再評価システムさえ用意できれば、そこは必ずや最も人材活用効率の高い場所になるはずです。

そうではなくて、社会の評価システムはかなりの程度まで正しく実力を反映しており、「一度レールを踏み外すと・・・」というのは何の根拠もない、負け犬のぼやきだったのだとしましょう。
つまり、社会で活躍する頃までに、ほとんどの人間はすでに充分な回数の「精製過程」を済ませているのだと。
もしそうだったなら、単純に高学歴で優秀と呼ばれる人材を集めた会社(あるいは集団)の方が有利だということになります。

実際の世の中がどちらに近いのかは、簡単にはわかりません。
真実は、最終的にどちらのタイプの会社(や集団)が伸びるかによってしか、測ることができません。
それでも私だったら、常に敗者復活の場が用意されている場所の方に魅力を感じます。
というのはつまり、私が高純度の”勝ち組側”に入らなかったからですね。
そして、グラフを見る限り、私と同意見の人間の方が、数が多いはずなんです。
どのみち結果を見るまでわからないのであれば、私と同じ側の人間は「精製取りこぼし」を集めることに注力すべきでしょう。
というのは、それがひょっとすると人間を最大効率で活かす場になる可能性があるからです。


                                                                                                                                              • -

子供の頃、私は父に「試験の奥義」というものを教わりました。
それは
 「先生の気持ちになる、すると、どの問題が出て、何を答えるべきかがわかる」
というものでした。
残念ながら私が子供の頃は、この奥義の真意を理解していませんでした。
大人になってようやく、この意味がわかってきました。
「大人って、なんてずるいんだろう」と。
この「試験の奥義」から導き出されるのは、こういうことなんです。
「そもそも試験とは宇宙の真理を答える場ではなく、いかに先生に合わせるかを試す場である。」
今風に言えば、先生の空気を読む能力、SKY能力ですね。

このことがはっきりとわかるのが、よく国語で出題される「登場人物の心情を述べよ」という類のもの。
そんな答は受け手の感じ方次第であるとか、心情が1つに定まる根拠に欠くとか、他の可能性もあるはず、といった議論を繰り返しているようでは、まだまだ「試験の奥義」を理解していない。
答は1つに決まっているのです。
試験というシチュエーションで、問題として切り取られた文章において、ある特定の聞き方をされた場合の答は、自ずと1つに決まるはず。
もちろん、その1つに決まる答は、もとの文章の文芸的価値とは何の関係もありません。
国語の試験で問われているのは、国語の能力なんかじゃなくて、国語を題材としたSKY能力なんです。

私も身に覚えがあります。
もうウン十年も昔のことですが、理科の問題です。
正確な問題文は忘れてしまいましたが、たしかこんな内容でした。
「2つの星があって、一方が他方の2倍の明るさに見えた。一方の星は、他方の星の何倍離れているだろうか。」
この問題を見て、私は暗い夜空に浮かぶ2つの光の点を想像しました。
地球から見えるのは、明るさの違う2つの点だけです。
この状況だけで、星までの距離が分かるはずがない、そう私は思いました。
だって、近くて暗い星もあれば、遠くで明るい星もあるじゃないですか。
なので、答案に「星までの距離は絶対わからない」みたいなことを書きました。
結果はみごとにバツ
でも、私は自分の考えは絶対に間違っていないはずだ、と思ったわけです。
で、自分が正しいと思ったにもかかわらず、認められなかった不満というものは案外根深くて、ウン十年経った今でもこうして覚えているわけですね。
もしそこでSKY能力を発揮していれば、この問題は先生が逆二乗の法則を聞きたかったのだな、ということが読み取れたはずです。
「試験の奥義」を会得した大人であれば、嫌味たっぷりに、こう答えることができるでしょう。
「この問題に与えられた条件だけでは、星までの距離を判断することはできない。
 もし、明るさが異なる2つの星の実体がほぼ等しいという仮定を布いたなら・・・」

試験でまっさきに培われるのはSKY能力であって、本当の国語や理科の能力は二の次なんです。
であれば、試験というものは無意味なのでしょうか。
いやいや、世の中が求めているのは、どうやらそのKY能力の方なんです。
国語や理科は二の次。
ほら、どんな会社だって言うじゃないですか、KY能力の高い人材が欲しいって。
厳密に言えば、学校で役立つSKYと、会社で役立つKYはちょっとだけ違います。
この点を突いて「頭でっかちな人間は困る」みたいなことが言われますけど、実のところ、両者の違いはさほど大きくもない。
本当に頭でっかちの人間は、SKY能力が低い故に、試験の点数も悪いはずですよ。
なので、SKY能力開発の訓練は、かなりの程度まで立派に役立っている、ということになります。

もはや決まり文句なのですが、SKY能力と「本当の国語や理科の能力」は別物です。
しかし、ではその「本当の国語や理科の能力」を発揮できる場がどこかにあるのでしょうか。
ほとんど無いか、あっても非常に特殊な場に限られる、というのが実情でしょう。

本当の気持ちを言えば、KYなどといった処世術を流布するのは不本意ではあります。
しかし、大人になって「試験の奥義」の意味がようやくわかるようになった今、あえてこれを否定する気力は私にはありません。
それでも、どうしても納得がゆかない人は、やはり試験や一発勝負に頼らない、人間の評価方法を考えてゆく必要があるのではないでしょうか。