未来の光と影(10年前のメッセージ)

ここでは”進化”が示す我々の未来について語ってみたいと思います。進化が必ず何らかの代償を生むのなら、我々の未来も必ずしも明るい側面ばかりではないはずです。ここでは未来の持つ光の側面と同時に、影の側面についても言及したいと思います。

”進化”という概念よって、人類は宇宙の中における存在理由を初めて正しく認識しました。そう遠くない将来、人類は自らの進化を自らの意志によって御するようになるでしょう。それは、家畜の品種改良のような行為が人間に対して行われるということではありません。おそらく人類は自らの手で生み出した新たなるパートナー〜機械と融合することによって次の段階に進むのだろうと思います。ここで言う”機械”とは、今日広く普及している無骨な”鉄の塊”とは外見も動作原理も大きく異なるでしょうが、とにかく人の手によって創造したものが、いずれは人間自身を変えてゆくに違いありません。こんな妄想はSFの見過ぎでしょうか? 「機械は生物とは根本的に異なるものだ」そう思われるかもしれません。しかし、機械が生物の一部となることに懐疑的な人でも、生体を構成する蛋白質が生物の一部であることに異論を差し挟む余地はないと思います。ところが遺伝子にまで溯って考えると、生体を構成する蛋白質とは”遺伝子の作り出した道具”に過ぎないことが解かります。ならば、”蛋白質の道具”の先に”人が作り出した道具”を付け足した所で何の不思議があるでしょう。我々はしばし”人工物対自然物”という対立の図式で物事をとらえようとしますが、実は人間とて生物の1つであり、人の作り出した物も結局は”自然の作り出した物”の1つでしょう。おそらく遠い未来の生物は、なぜ自分達の体内に原始的な”蛋白質ユニット”が含まれているのか疑問に思うことでしょう。そして、実はその”蛋白質ユニット”こそが自分達の”核”なのだという事実を”発見”し、衝撃を受けるのではないでしょうか。
さらに進化の段階が上がると、デリケートな蛋白質ユニットは同等以上の働きを持つ機械に置き換わるかもしれません。SFに登場するサイボーグは、脳以外の手足など器官を機械に置き換えるのが定番です。しかし脳とて物理的実在なのですから、同等の働きを持つ機械に置き換えられないとする理由はありません。脳の中に刻み込まれた情報を何らかの形で読み取ることができれば、それは即ち人格そのものを取り出したことになるでしょう。”心”が今日知られているような”シリコンの頭脳”に宿るかどうかは難しい問題です。さしたる根拠はありませんが、筆者は今日のデジタル・コンピューターにはまだ何かが欠けている、”人格”や”心”は決定論的なアルゴリズムとは本質的に異なったものだろうと考えています。これは、何も”心”が科学では扱えない神秘の領域だと主張するのではありません。喩えて言うなら、今日のデジタル・コンピューターは”古典的記述”に基づいて動作しているようなものです。古典力学によって電子が記述できなかったように、脳内の情報の全てを決定論的なアルゴリズムによって記述するのは無理があるということです。”心”を記述するには、おそらく古典論から量子論に匹敵するほどの飛躍が必要でしょう。これは今後の科学に求められる課題です。
”人間と機械が創る未来”に懐疑的、あるいは否定的な人は当然多いことと思います。ただ、夢物語りにも似た未来のことを思うと、今日”科学にはもはやするべきことはない”と言うのはあまりにも近視眼的ではないかと思うのです。確かに、解析学を中心とする”分析的な科学”は一通りの完成を見たのかもしれません。しかし、もう一歩カメラを引いて遠くから広い範囲を見渡せば、まだまだ人の知らないことは沢山あります。未知に対して、我々はもう少し謙虚になるべきでしょう。

今日、我々が営んでいる社会は加速的な勢いで変化、成長を遂げています。この成長の延長上に、上に描いたような”人と機械のバラ色の未来”が待っているのでしょうか。そうではないと筆者は思います。進化論の安易な解釈は”止めどもない成長”を必要とする資本主義〜特に”自由競争”を正当化する理論に使われてきました。しかし筆者の目から見ると、今日”経済の成長”と言われている傾向は進化どころではなく、むしろエントロピー生成を最大にするプロセスに思えて仕方ありません。例えば今日、”情報革命”という言葉があちこちで使われています。しかし、そこで言う”情報”の中身を開けてみれば、せいぜい「いかにして他人より速く儲け話のネタを入手するか」といった程度のものでしかありません。生物が何億年もかけて築き上げてきた”情報”は、ビジネスマン達が目の色変えて追いかけている”情報”とは全く次元が異なるものです。偽の”成長”、偽の”情報”をスローガンに掲げ、実は生物が長い時間かけて築き上げた秩序構造を破壊し、エントロピーを最大化する〜これが今日我々の歩みつつある道の偽らざる姿です。例えば汚水の中のバクテリアがいかに大量に繁殖しようとも、それが魚に生まれ変わるわけではありません。生物にとって最も適した環境は均衡の上に成り立つ生態系です。一方的に指数的な”増殖”を続けるシステムは、最終的にはそこに住む生物自身に破綻をもたらすことになるでしょう。

進化を阻む最大の要因とは何でしょうか。それはエントロピー増大が示すような”一種の平衡状態”に達することです。もっと身近な言葉で言い表すと”完成してしまうこと”です。これまで生物が歩んできた進化を振り返ると、単純な一本道を”みんなそろって”歩んできたのではなく、幾つもの曲がり角、分岐、そして袋小路の連続でした。種としての生物が進化の袋小路に入った状況を調べてみると、競争して他のライバルに負けたとか、環境の変化についていけなかった、などではないということがわかります。(もちろんこういった要因が皆無であったとは言いません。)進化が止まる最大の理由は、「あまりにも完全に環境に適応したため、それ以上進化の階段を上がる必要がなくなった」ということなのです。”生きた化石”と呼ばれる生物がいます。サメやクラゲ、ゴキブリ(!)なども、人類が誕生するはるか以前からほとんど基本デザインを変更していません。これらの生物を原始的だと見ることもできますが、同時にもうほとんど変更の必要もない、完成されたスタイルだと見ることもできます。生きた化石の1つである”うみゆり”は、有性生殖を捨てて自ら改変の可能性を閉ざしました。生きた化石にとって、もはや進化は不要なのです。生物が陸に上がったのは、進化史上最も劇的な事件の1つです。ここで留意したいのは、あらゆる種類の魚がこぞって陸を目指したのではなく、陸に上がったのはごく一部の特殊な種族〜どちらかというと海に居場所のなくなったはみ出しもの〜に過ぎないということです。「なぜ海の中で知的生物が発生しなかったのだろう?」筆者は常々この疑問を抱いてきました。”生存の快適さ”を考えると、陸上より海中の方がよほど好条件なはずです。仮に自分が神様の僕となって「知的生物を設計せよ」と命ぜられたら、条件の厳しい陸上生物を設計するより、余計な手間のかからない海中生物の方を選ぶことでしょう。しかし事実は逆で、その後の進化の中心は陸上に移ることになります。進化上の大選択は、もっと人類に近いところにもありました。人類の祖先は樹上生活を送っていた猿だったと聞きます。それが住み心地の良い森林を捨てて危険なサバンナへと移り住んだとき、進化の次なるステップが刻まれたのです。ここでも陸上への進出と同様の疑問が生じます。「なぜ人類は森林文明ではなく、サバンナで文明を築いたのか?」単に生存という側面から見ると、未来につながるような大革新は、むしろ生存に不利な”より困難な状況”において実現しているのです。筆者は、進化には”フロンティア”と呼べる概念が存在すると思っています。すでに海中はフロンティアではないのです。古代の魚と現在の魚が異なっているのですから、海中から自然淘汰が消え去ったわけではありません。しかし、遠い未来に魚類の末裔が”海中文明”を築くことはもはやないでしょう。同様に、植物も、昆虫も、猿もイルカもフロンティアではありません。今日、地上でフロンティアと呼べる種族はただ1つ、我々ホモ・サピエンスだけです。

さて、生物の進化について起こったのと同様のことが、人類の文明の発展や衰退についてもあてはまると思います。かつて、栄華を誇った文明がどのようにして”進化の袋小路”に入っていったのか。その理由を我々は深く学ぶ必要があります。今日、我々の属する文明は300百年ほど前にヨーロッパで発生し、その後破竹の勢いで成長を遂げました。この文明は、おそらく今後100年内くらいに”1つの完成”を見ることになるでしょう。多くの人が、この”完成した姿”を理想郷と思っているかもしれませんが、もし文明が”完成してしまったら”、その後どうなるのか考える人は少ないように思います。本質的な進化が止まった世界〜その兆候は、すでに学問の世界に表れています。今日の文明の土台は、解析学を中心とした数学、物理学、自然科学によって成り立っています。現在、こういった学問はすでに”1つの完成”を見ており、今後”劇的な進化”を遂げることはおそらくないでしょう。学問で起こったことが数十年のタイムラグを経て、実社会に反映されたときどうなるか。現在、我々の文明は大きな行き詰まりを迎えています。この行き詰まりの理由は、資源の枯渇でも、一部の指導者の無能によるものでもありません。文明全体が”進化の袋小路”に入りつつあるのです。ひょっとすると数百年後の世界は、あらゆる進化の止まった”生きた化石”のような状態になっているかもしれません。しかし、たとえそのような状態に陥ったとしても、”フロンティア”はきっと何処かにあります。”フロンティア”は、必ずしも目先の生活の快適を約束はしません。むしろ、現状が快適であるからこそ、そこが進化の袋小路となるのだと言えます。陸上より海中の方がずっと快適な環境だったはずです。にも関わらず、なぜ陸に上がろうとするのか。上がる必然性など何も無い、進化の目指すものは進化それ自体であり、”安寧な海の中の暮らし”ではないのです。この辺りに生物の持つ、最も偉大なものがあると思います。
未来の文明の姿を予測すると、おそらく海中と陸上のような二極分化が生じるのではないかと思います。1つは現代の文明が生んだ”安寧の海”の中に留まろうとする一群、もう1つはそれでもあえて”フロンティア”を目指そうとする一群です。


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昔書いた古いテキストファイルが発掘されたので、ここにアップしておく。
書いた日付が 1998/08/13 となっていたので、今からちょうど10年前だ。
まず10年も経ってしまったということに、我ながら驚くなあ。
読み返してみると、文章が若々しい(青い)。
それでも現在考えていることは、10年前とさほど変わっていないようだ。
この文章を書いたときには、まだ量子コンピューターというものを知らなかった。
もっと深く突き詰めていれば、高みに到達できたのだろうか。
ここでたいした注意も払わず止めてしまったところが、天才と凡人の差なのだろう。
もしこのブログがあと10年残っていたら、そのときにまた読み返してみよう。