幸福量保存の法則

ずいぶん昔から、ひょっとすると物心ついたときから、私はずっと1つの妄想にとりつかれている。
それは「幸福量保存の法則」という妄想である。

「幸福量保存の法則」とは何か。
それは、
 「人類全体の持つ幸福の量と、不幸の量を全部足し合わせると、ちょうどゼロになる」
という考え方だ。
物理的、数学的に証明された法則ではない。
単に私がこれまで生きてきた中で学んだ経験則である。

私たちは、いったいどういったときに幸せを感じ、どういったときに不幸を感じるのだろうか。
私の感覚では、「何かと比べて良くなったときに」幸福を、逆に「何かと比べて悪くなったときに」不幸を感じ取る。
幸福や不幸は絶対的なものではなく、あくまでも何かとの比較において成り立つ、相対的なものだと思うのである。
どんなに贅沢な環境に置かれたとしても、やがて人はその贅沢に慣れ、ありがたみも薄れてしまう。
反対に、どれほど劣悪な環境に置かれても、やはり人は(死なない限り)その環境に慣れて、何とか耐えしのいでしまうものだ。
してみれば、幸せを感じる瞬間は、いままでの劣悪な境遇から、転じて贅沢な環境に変わったその落差にある。
同様に、不幸を感じる瞬間は、贅沢な環境から劣悪な環境へと落下する、その過程にある。
たとえ標高5000メートルの高地にいたとしても、周囲が一様に平らであれば、そこで感じるものは海抜0メートルに広がる平野において感じるものと、さして変わらないのだと思う。

ハッピーエンドで終わる物語は、初期の段階で主人公は不幸な境遇に陥らなければならない。
最後に幸福を感じるためには、その前に不幸である必要があるからだ。
はじめから幸せで、特に困難に遭遇することもなく、最後まで幸せといった、淡々とした叙述が物語に成り得るだろうか。

さて、自分一人が時の変化と共に感じる幸福、不幸と似たような気持ちが、他の人間との比較においても成り立つ。
私が幸福だと感じるのは、様々な意味で、周囲の他の人間よりも高い位置にあると自負したときである。
逆に不幸だと感じるのは、周囲の他の人間よりも自分が低い位置にあると感じたときである。
たとえ自分が本当は高い位置にあったのだとしても、周囲が自分と同じレベルで一様に高かったなら、私はそこから幸福を感じ取ることができない。
もし皆同じだったなら、そもそも高いとか、低いとかいった概念さえも生まれない。
同じことだが、全員が一斉に貧乏であったなら、誰一人として自分がみじめだとは思わないだろう。

いまここに、10人がいたとしよう。
10人のうち1人が、他の9人より抜き出ていたなら、抜き出た1人の幸福量は+9、残りの9人の幸福量は−1ずつである。
なぜかわからないが、そうなるように思える。
抜き出た1人は、圧倒的な羨望を集めるだろう。
ちょうどそれは、残りの9人分であるような気がする。
残りの9人は、1人が抜き出たことによって、同様に少しずつおもしろくない気持ちになるだろう。
それでも「あいつ1人が特別だったのだ」と割り切ることによって、各人が受け止める不幸の量はさほど大きくはならないだろう。
もし、抜きんでた人が2人で、劣った人が8人だったなら、それぞれの持つ幸福量は+4と、−1ずつになる。
2人が等しく抜き出ていた場合、ただ1人が突出していた場合よりも幸福の度合いは小さい。
それでも、そこそこの幸せを感じることはできるだろう。
反対に、10人のうち1人が、他の9人より劣っていたならば、劣った1人の幸福量は−9、残りの9人は等しく+1ずつの幸福を受け取る。
1人を犠牲にすることによって、残りの9人が等しくささやかな幸福を分かち合える。
これがいじめを形作る。
たとえば世界のどこかで飢えに苦しむ映像をテレビで見たとき、かわいそうだと思うのと同時に、自分がそうではなかったという安堵感を得てはいないだろうか。
普段見たことのない谷底を覗くことによって、初めて自分の住む場所の高さに気付くのである。
もちろん、幸福にモノサシはない。
それでも、幸福と不幸の割合を人数によって比例配分してみると、どうも自分が感じ取る気持ちの大きさにぴったり一致するような気がしてならないのである。

さて、以上の「幸福量保存の法則」を正しいものと認めると、直ちに次の結論に至る。
「他人との比較において幸福を求める限り、全員が幸せになることはあり得ない。」
そうなのだ。
あなたが幸せを感じた分、どこかの誰かがそれだけ不幸になっている。
「他人の不幸は蜜の味」。
そもそもみんないっしょに幸せになることなど、あり得ないのだ。
幸福の総量は一定であり、それをどこに、どれだけ分配するかということだけが問題なのだから。

もし幸福が比較によってもたらされるものだったなら、幸福の源泉は2つしか無い。
1つは空間的に、他人から奪い取ってくること。
もう1つは時間的に、未来から持ってくることだ。
前者の場合は、全員が幸せになることはない。
後者の場合、全員が幸せになれる(ことがある)が、幸せであり続けるためには、常に成長し続けなければならない。

あたりまえすぎて気付きにくいかもしれないが、我々は日常無意識のうちに「保存則」を用いて物事を考える。
歴史をふりかえると、「保存則」という概念が比較的新しいことに驚く。
質量保存の法則はラボアジェ(1774年)、エネルギー保存の法則は異論の分かれるところだが、ライプニッツ(1693年)あたりだろうか。
これらはざっと300年程度であり、決して太古の昔から人類普遍の概念ではなかったのだ。
保存量の流れを把握することは、世界の在り方を把握することに、ほぼ等しい。
乱暴な言い方をすれば、物理学とはエネルギーの流れを調べる学問であり、経済学とはマネーの流れを調べる学問である。
(マネーが保存量かどうかについては異論があるだろうが、少なくとも第一近似では保存量で良いだろう。)
物理学や経済学と同じように、人間社会には「幸福量」の流れがあるのではないか、と思う。
ただ、エネルギーやマネーと違って、幸福量にはいまのところ定量的に測定する手段が無い。
多数の意見を統計的に処理することによって、ある程度客観的な「幸福指標」は出せるかもしれない。
しかし、大多数の幸福指標が、私やあなたの特定のケースにあてはまるかどうかは、また別の問題だろう。
結局のところ「幸福量」はどこまでいっても(いまのところ)本人の主観に任せるしか無いように思われる。

こんな風に書くと、
「いや、そんなことはない。あなたも幸せ、私も幸せといった、Win-Winの関係があるではないか。」
といった反論がきっと為されることだろう。
つまるところ当人の主観の問題なので、「ああ、そうですか」と言ってしまえば、議論はそこで終わりになる。
ただ、おせっかいで言わせてもらえば、安易に幸福が湧いてくるといったおめでたい考えの大半は、内省が足りないか、単に気付いていないだけに思えて仕方ない。
あるいは気付かないように、あえて無視しているのであろう。
なぜ質量保存の法則といった自明の常識が、18世紀になるまで確立しなかったのか。
その一因には、気体として逃げていた質量に気付かなかったということがある。
あるいは、なぜエネルギー保存則はわかりにくかったのか。
その一因として、摩擦で失われたエネルギーに気付かなかったというのがあるだろう。
人の気持ちには、気体よりも、摩擦熱よりも気付きにくい一面がある。
例えば、人に慈善を施すことによって、密かな優越感にひたってはいないか。
そして、それを明らさまに指摘されると、あわてて懸命に否定したりはしないか。
あるいは人から受けた親切に表面的には感謝しつつも、内心「恩着せがましい」と負担に思ったりしていないか。
セールストークよろしく、下心丸出しの善意は善意ではない。
では、下心なしの、全く純粋な善意とは何なのか、少し考え込んでしまうのである。

賞賛を求めた時点で善意ではない。
哀れみを求めた時点で不幸ではない。
ご高齢の方には、よく「病気自慢」という不思議な話題がある。
こんなすごい手術をして内蔵を切り取ったとか、ガンの大手術をして九死に一生を得たとか、そんな自慢話である。
そこでは病気が重ければ重いほど、価値が高い。
幸福なんだか不幸なんだか、よく分からない。
そうかと思えば、子供たちの中には本人も気付かないうちに「仮病」になってしまう子がいる。
病気になると、周囲の人が親切になるし、注目してくれる。
なので、身体的には何の不都合もないのに、本当にお腹が痛くなったりする(らしい)。
幸福量は、物理的、外見的な状態よりも、人に恩を売ったとか、人に認められたといった要因を基準に据えるべきなのである。
なぜなら、幸福というものは結局は人との関係によってもたらされるのだと、ここでは考えている(仮定している)からだ。

もし可能であるならば、Win-Winの関係よりも、一方的優位に立った方がずっと幸福量は大きい。
今の世の中やビジネス社会では、それができないから次善の策として、Win-Winの関係などとうそぶいているに過ぎない。
事実、相手に関係を持続するだけの見返りがなかったなら、Win-Winの関係は成立しない。

つい先日も、大きな会社の偉い人が、こんな話をしていた。
「今や、中国、インドの成長は著しい。
 人口からして勝負にならないし、このままでは日本の将来が危ぶまれる。
 では、我々は一体どうすべきか。
 もう一度、我々の強みを思い起こそう。
 こだわりの品質、きめ細かな気配りをもって、世界と勝負しようではないか。」
大いに結構な話だが、1つ言わせてもらえば、この人は自分が中国やインドに生まれついたときのことを考えたことがあるのだろうか。
別にこの人だけが配慮に欠いているわけではない。
上の主張は日本中至る所で、あたりまえのように言われていることだ。
私はこの話を聞かされるにつけ、そもそも「勝負しよう」ということ自体が間違っているのではないか、と感ずる。
中国やインドが不幸な分、日本は幸福であり、アメリカが幸福な分、日本は不幸なのだ。
それでも、なりふり構わず日本だけが幸福になることが、果たして本当に良いことなのだろうか。

別に世の中に絶望せよと言うのではない。
幸福の総量には限りがある。
この事実を、正義でもなく、悪でもなく、人の性として素直に認めた方が良いように思える。
それを認めた上で、あえて「幸福量保存の法則」の破れを探した方がよい。
すると、何が偽善で、何が本当に立派な行いなのかが見えてくる。
物理的なエネルギー保存則に破れは無い。
しかし、幸福量保存の法則は、ごく希ではあるが、破れることがあるのではないかと思えるのである。

「情けは人のためならず」という諺がある。
この言葉は、よく次のように誤解されている。
「なまじ人に情をかけると、かえってその人のためにならない。だから人に情をかけるべきではない」
もとの意味はそうではなく、
「人に情けをかけておくと、それは巡り巡っていずれは自分に返ってくる。だから人に情をかけなさい」
ということだそうだ。  wikipedia:情けは人の為ならず
ただ、私はこの解釈にも少々不満が残る。
「いずれは自分に返ってくる」といったあたりに、商人のように計算高い、打算が含まれているような気がするからだ。
もし自分に返ってくる可能性がなければ、情はかけない、ということなのだろうか。
私は、情をかけるという行為は、巡り巡って返ってくるようなものではなく、本当に、その場で自身の満足につながるものだと思う。
実は、情をかけることによって一番満足するのは、存在意義を満たされた自分自身なのである。
ボランティア活動によって一番助けられているのは、ボランティアに生き甲斐を見出した当人なのだ。
これは知っておいてよいことだろう。
そこまで認めた上で、情をかけるのは立派な行いである。
それでも「ああ、俺は良いことをしたなー」などと悦にひたるのは、まだまだ修行が足りない。
その密かな悦楽が、相手に対して密かな「恩着せ」を生んでいるのだ。
純粋な善意とは、何物も求めない、空気のような状態を指すのだろう。
そこまで至れば、幸福量も不幸の量も関係ない、高い境地に達したと言える。
残念ながら私はとてもそこまで達していないので、日々修行を積むわけである。

情をかけるよりももっと立派な行いは、人知れず、一人不幸をかみしめることである。
もし世の中に、不幸をブラックホールのように吸い取ってくれる点が存在すれば、結果として世の中全体の幸福量は増大する。
幸福と不幸には不思議な性質があって、それぞれ強い力で他人に伝搬する。
実際、幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼ぶ。
これを象徴する話として「にわとりのつつき順位」がある。
にわとりは狭い小屋の中で飼うと、1番上位のにわとりから下位のにわとりに至るまで、一列の順序関係ができ上がる。
1番上のにわとりに不満があってムシャクシャすると、1番上のにわとりは2番目のにわとりをつつく。
すると、2番目のにわとりはムシャクシャして、3番目のにわとりをつつく。
3番目のにわとりは4番目を、4番目は5番目を、といった具合に、ムシャクシャは上から下に順番に伝わってゆく。
そして、最後の最も下位のにわとりは「さかんにコンクリートの床をつつく」行動に出るそうだ。
私の聞いた話だと、上から順番に、1つずつ下をつつくということだった。
1番上は、2番目をつつく。
順序を飛び越して、3番目、4番目をつつくということはあまりしないらしい。
(この部分についてはうろ覚え。下を全てつつく、といった記述も見受けられるので、真実はいかに?)
こうして見ると、最もかわいそうであり、かつ、最もにわとり社会に貢献しているのは、一番たくさんつつかれる、一番下のにわとりである。
不幸な目にあったとき、それを一人胸の内にしまっておくのは、実際非常につらい。
たいていの人は、訴えるなり、つつくなり、愚痴をこぼすなどしてどこかに不幸を伝搬する。
しかし、伝搬することによって、当人から不幸が消えるのかもしれないが、世の中の総不幸量が減るわけではない。
仮に不幸の量が一定なのだとしたら、必ずやそれは最下位の、ブラックホールのような掃き溜めにたまっているはずだ。
そして、テロや暴動で爆発しない限り、不幸はそこで吸収されているはずである。
当然のことながら、これはつらい。
特に、他人に伝えることができない不幸というものが、一番つらい。
私は、人間社会が成立しているのは、実は不幸のブラックホールがあるからだと思っている。
そこは決して語られることもなく、誰から認められることもないのだが、日々黙々と、世の不幸を吸い取っているのである。
社会貢献という点からすれば、不幸のブラックホールほど世の中に貢献しているものはないであろう。
なので、人知れず不幸をかみしめることは、真に立派な行いなのである。

しかし世の中には、情をかけることよりも、不幸を一身に背負うよりも、もっと立派な行いがある。
それは「不幸を幸福に変換すること」である。
原理的に考えて、これより立派な行いは存在しない。
正直言うと、私はその現場をこの目で見たことはないし、自ら実施したこともない。
物語の中や、風の噂に、そのようなことがあると聞かされるのみである。
しかし、どうやら人間には、不幸を吸い取って幸福に転じるような、すごい力が備わっているらしいのだ。
これは保存則の概念に全く相容れない、人間だけが持つ奇跡である。
もし「不幸を幸福に変換する」方法が見つかれば、当然ながら世の幸福量は一方的に増大する。
これこそ永久機関もかくやと思える、人類の夢だと思うのである。

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(2008/06/26 追記)
その後、「幸福量保存の法則」でググってみたら、この言葉は何気に普及していることがわかった。
しかし、人によって使われ方、意味のとらえ方が少しづつ異なっているようだ。

1.不幸の後には幸せがくる。逆に、幸せが続けばそのうち必ず不幸なことがおこる。
人生で合計するとプラスマイナスゼロになるという考え方。
人間万事塞翁が馬」というやつである。
だから、人間はみんな結局は平等なんだよ、ということになる。

2.人類全体で、幸せな人がいれば必ずそのぶん不幸な人がいる。
これを合計するとプラマイゼロになるというような考え方。
「他人の不幸は蜜の味」というやつである。
幸せは他人から奪うものであり、平等に幸せな状態はあり得ない、ということになる。

1.と 2.は正反対のように見えるが、
1.を時間軸、2.を空間軸と考えれば、両者は実は同じところに源を発しているのではないかと思う。
いずれにせよ、こんなものを信じるか、信じないかは、結局本人の心がけ次第というあたりに落ち着くのだろう。