自転車回転走法

最近は自転車通勤が流行っているようだ。
かく言う私も自転車通勤であり、会社までの道すがら、私と同じような自転車通勤族をよく見かけるようになった。
交通安全やマナーの問題からとやかく言う人もいるが、大局的に見れば健康的で環境にやさしく、お金もかからない。
路上を大きく占める自動車よりずっと良いものだと思う。

これが私の通勤自転車:TVT92
その名の通り'92年製のやや古い自転車なのだが、軽い乗り心地がとっても気に入っている。

自転車は、2本の足で走るよりもずっと楽で速い。
そんなの当たり前と思うかもしれないが、考えてみるとこれは不思議なことではなかろうか。
普通、自転車の重さは10Kgを超す。
これだけ重いものを余計に抱えながら、エネルギーを供給する足の方は、ただ走る場合と全く変わらないのである。
もし自転車というものを全く見たことがない人に、
「10キロの鉄の車に乗って移動するのと、ただ走るのと、どっちが速いか?」
と聞いたなら、果たして正解に達するだろうか。

なぜ自転車は余分なお荷物を抱えていても、それをはねのけるほど速いのだろうか。
それは、自転車というものが「動く動物や機械のなかでナンバーワンの効率を誇る」からである。

「自転車の物理」
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000186.html

何らかの物体が地上を走る様子を想像すると、我々はまず「地面を後に押して、その分だけ前に進む」というイメージを抱くであろう。
ところが、物理学に忠実に考えたなら、このイメージは必ずしも的を得てはいないのである。
ニュートンの第1法則(慣性の法則
  外力が加わらなければ、質点はその運動(静止)状態を維持する。
  力を加えられない質点は等速度運動(等速直線運動)を行う。
何気なく見ると気付きにくいかもしれないが、これは
  「一定速度で地上を走るために要する力はゼロである」
ということを主張しているのだ。
もちろん現実にはゼロの力で前進できるはずはない。
ここで言う物理法則とは、摩擦や抵抗というものが全く無かったときの話なのである。
鏡のようにツルツルに磨き上げた、スケートリンク上の状況を想定してみればよい。
その場合、地面を後向きに押す力は最初にごくわずかだけ加えれば済む。
自転車はスケートリンクほどではないが、それでも摩擦や抵抗の少ない理想に近い状況にある。
自転車で一漕ぎすれば、漕いだ力が抵抗によって失われるまで、だいぶ長い距離「伸びる」ことができる。
そして等速で走る自転車に加える力は、摩擦や抵抗で失われる分だけで済むのである。

それでは、自転車を使わずに自分の足で走った場合はどうだろうか。
その場合には、まず「足そのものを上下動すること」にエネルギーを費やすことになる。
2本足の場合、どうしても「付いて、蹴って、付いて、蹴って」という加減速が避けられない。
そして、ニュートンの第2法則に従えば、力は加速する際に必要とされるのである。
一方、円形の車輪は一定速度で走行することが可能だ。
加速減速を繰り返す足での走行と、一定速度で加減速を必要としない車輪の走行。
足と自転車の最大の差はここにある。

もし走行中のエネルギーロスを極限まで抑えることができれば、理屈の上では足で走っても自転車の速度にまで到達できるはずだ。
そう信じて、私は一時期真剣に速く走るためのトレーニングを積んだことがある。
そして「自転車のように走る」というイメージは、私にとって大きなプラスとなった。
私なりにつかんだ速く走るためのコツは、次の3点である。
1.回転させる
2.伸びが大切
3.無駄な足音を立てない

1.回転させる
私は昔、ランニングとは「前傾して、足を後向きに押し出す」ものだというイメージを持っていた。
ところが、これが間違いだった。
実際に「後向きに押し出す」イメージがあてはまるのは加速する段階、スタートの直後だけなのである。
加速を終えて一定速度に達した後は、「下半身に車輪が付いている」ようなイメージの方が当を得ている。
足の速い人のフォームをよく見ると、等速時には必ずしも前傾してはいない。
むしろ体はまっすぐで、胸を張っている。
そして、足が後方に伸びるのと同様に、前方にも大きく伸びている。
蹴り終えてから前方に降り出すまでの足の位置は、思い切り「高い位置に」ある。
つまり足の高低差が大きいのである。
速い人のランニングは、「車輪のように」前後対称であり、足が「回転している」のだ。
一方、足の遅い人を見ると、気ばかりあせって体が前のめりになっている。
前のめりになると、足を前方に振り出しにくくなり、結果として足が「後ろに流れる」。
遅い人のランニングは、足が回転しているのではなく、往復運動しているのである。

2.伸びが大切
自転車が速い秘密は、つまるところ「一漕ぎの伸び」にある。
足で走る場合であっても自転車と同様、蹴った後に余計な力を使わず、等速で伸びている期間が存在する。
そして、この「伸び」の感覚がとても大切なのだ。
極端に言えば、伸びている間は休んでいられる。
なので「伸び」をマスターすれば、疲れることなく長距離走れるわけだ。

3.無駄な足音を立てない
走っているときの足音はどこから生じるのだろうか。
それは主に、着地の減速時である。
だから、音が小さければ小さいほど、着地時の減速も小さいことになる。
走行のエネルギーが音に変わっているのだから、足音はそれだけマイナスとなっているはずだ。
車輪が転がるように、余計な音を立てないのが理想のランニングだ。

こんな風に書き連ねると、さぞかし足の速い人なのだろうと思われてしまうだろうから、この辺で真実を明かしておこう。
なんだかんだいっても、足の速さは理屈ではなく、練習量で決まる。
だからこんなところで理屈をこねている暇があったら、ジョギングに出かけるべきなのである。
私がそこそこ足に自信があったのは、もう10年以上も昔の話だ。
今は気持ちだけはどんどん前に走って行くのだが、体は思った場所まで進んではいない。
なので、理屈をこねて、せめて頭の中で速く走った気持ちになるのだ。

再び自転車の話に戻ろう。
一昔前、まだ私がそこそこ走れた頃の自転車には「バイオペース・ギヤ」という製品があった。
通常の自転車のギアが真円なのに対して、このバイオペース・ギヤは少しひしゃげた楕円に近い形をしている。
ギアをこのような形に変形させたのは、足の上下運動に合わせて最も効率よく力が発揮できるように、という意図なのだ。
これは非常に合理的な発想に思えた。
さっそく取り付けてみたところ、真円に比べてギヤの歯2個分くらいは得をしたように感じた。
ところが、一見よさげに思えたこの変形ギア、実際に使い込んでみると、やはり真円の方が速かったのである。
足の上下運動を自転車のメカで吸収するよりも、むしろ人間の足を自転車の真円に合わせた方が、より大きなパワーを引き出せた。
つまるところ自転車の運動も、その本質は「往復ではなく回転」だったのだ。
当初、回転運動に不慣れなうちは、変形ギアの方が真円よりも扱いやすい。
しかし、回転運動に慣れるに従って、やっぱり変形ギアよりも真円の方が良かったことに改めて気付くのだ。
そういった意味で変形ギアは、回転に慣れるまでの一時的なものなのである。
円運動は単純で美しいというだけでなく、物理的な意味がある。
円運動こそが余計な加減速を必要としない、最も効率の良い形なのだ。

一見合理的に見えて、実は上手くゆかなかったという例を、私は子供の頃に父から聞かされた覚えがある。
それは「ドイツ人の下駄」という逸話だ。

ドイツ人が日本人の履いていた下駄に関心を示し、自国でも同じような下駄を作ってみた。
ところがその下駄が、どうも日本の下駄と履き心地が違う。
何が違うのかというと、鼻緒の位置が中央ではなく、内側に配置してあったのである。
足の親指は1本、残りの指は4本なのだから、当然1本よりも4本の方が幅が広くなるはずだ。
だから、鼻緒の位置は内側に寄っていて当然ではないか。
そのようにドイツ人は考えたのだそうだ。
しかし、実際に履いてみると、鼻緒が内側に寄っている下駄よりも、中央にあった下駄の方が履きやすい。
なぜかというと、中央を定めるのは1本、4本という指の数ではなく、体重の配分にあるからだ。
足の裏の体重配分は、親指50%、残りで50%に近い。
なので、下駄の鼻緒が中央にあるのは単純だからそうなったというだけではなく、真に合理的な形だったのである。

このお話に続けて父は「ドイツ人は物事を何でも科学的、機械的に見なす傾向がある」みたいなことを言ったように思う。
そして言葉にはしなかったが、それに続けて「日本人は簡素な美的感覚に訴える」みたいなことを言いたかったのだと思う。
今となっては真偽の程も定かではないし、思い切り民族的偏見に満ちたお話だと思う。
時代も時代だったし。
それでも、私の中のドイツ人のイメージはすっかりこれで固まってしまった。

円運動にせよ、下駄にせよ、そこには単純という以上の合理性がある。
ただ、その合理性は、単純さゆえに見過ごしてしまいがちだ。
いろんな浅知恵を働かせてあれこれやってみると、初めてその合理性に気付くのだ。
そして、ひとたび気付くと、単純な合理性とは極めて美しいものだと感じるのである。