油滴鍋の天下統一

私の好きな料理の1つに「鳥モモの蒸し焼き」というのがある。
大きな鍋に醤油とコショウ、鳥のモモ肉を入れて蒸し焼きにする。
子供の頃これが好きで、親に作ってくれとせがんだら、
「なんでこんな簡単な料理が好きなんだろう」
みたいなことを言われた。
私はおよそ料理というものはほとんどできないのだが、
どうやらこの「鳥モモの蒸し焼き」は比較的簡単な部類に属するらしい。

さて、この「鳥モモの蒸し焼き」を美味しく食べ終えた後の調理鍋には、
水面の上に点々と油滴が浮いたものが残る。
油滴模様は、ちょうど大小の円で不規則に、びっしりと平面を埋め尽くした形となる。

2つの油滴の境い目を箸でつつくと、油滴はくっついて1つの大きな油滴となる。
これがおもしろくて、私は水面上の油滴を全部くっつけて、
鍋の世界を1つに「天下統一」できないものかどうか盛んに試みた。
大きな油滴の間には、虫眼鏡で見なければわからないほどの小さな油滴がたくさんある。
こういった小さな油滴まで1つ1つ見ていったのではきりがない。
こういう場所はめくら打ちで、とにかく箸でつつき続けると、
最後には不思議と全ての油滴が1つにくっついて、大きな油滴に吸収されるのである。

ここで何が不思議なのかというと、水面は目に見えぬほどの小さな油滴で「完全に」覆われているのか、という点である。
大きな油滴と油滴の間は、小さな油滴が埋めている。
その小さな油滴と小さな油滴の間は、さらに小さな油滴が埋めている。
その小さな油滴と小さな油滴の間は、、、といった具合に、この油滴の列はどこまでも(実際には油の分子1個まで)続いているだろうか。
もし果てしなく続くのであれば、油滴の「隙間」とは、どのようになっているのだろうか。

もう1つ不思議なことがある。
油滴は箸でつつくと1つにまとまるのだから、バラバラになっているより1つにくっついていた方が安定なはずである。
ではなぜ、最初から油滴は1個ではなく、あのようにバラバラになっているのか、という疑問である。

私にとって、2つ目の疑問の方が先に解けた。
2つ目の疑問は、統計力学によって答が示されていた。
「油滴が1つにくっついた方が安定だ」ということは、油滴の持つエネルギーが小さくなるように状態が移行する、ということである。
油滴は境界面をできるだけ小さく保つべく、円になろうとする。
この仕組みはいわゆる表面張力と同じだ。
ところがその一方で、油滴は自然に、バラバラになろうとする傾向も持つ。
簡単に言えば、かき混ぜればぐちゃぐちゃになるということであり、
難しく言えば、エントロピーが増大するということである。
およそ自然界にあるものは、この2つの傾向〜エネルギーとエントロピーが兼ね合って程良い分布を保つ。
油滴の様相は、その1つの例になっていたのだ。

最近、なんとなく思っていた積年の疑問に応えてくれる記述を見つけた。

 高安秀樹著『フラクタル』(朝倉書店)

「一見フラクタルのように見えても、実はフラクタルでないものもたくさんある。
たとえば、中華料理などの表面に浮かんでいる油、大小様々な大きさの油が浮かんでいる様子は、
フラクタル的に感じられるが、油の直径の分布を調べてみるとベキの分布ではなく、指数分布に近いことがわかる。」

http://www.h7.dion.ne.jp/~konton/0508.html

よそ様からの孫引きですまん。
世の中にはちゃんと油滴に興味を持っている人がいると知って、ちょっと嬉しく思った。

油滴と油滴の小さな隙間は、実際はどのようになっているのだろうか。
恐らく現実の油滴には
 ・最小の大きさが存在すること、
 ・必ずしも全て円ではなく、不定形であること、
 ・水面は油滴だけで完全に覆われているのではなく、ちょっとした隙間が空いていること、
などが絡み合って指数分布となるのであろう。

また、現実の物理的な油滴ではなく、仮想的、数学的な油滴の場合はどうなるか。
平面の上に、たとえば6角形配置に円をびっしりと敷き詰める。
その円と円の隙間にぴったりと収まるように、小さな円を埋める。
まだ残っている隙間に、ここにもぴったりと収まるような円を埋める。
この操作をどこまでも続けると、円は平面を「全て、完全に」覆い尽くすのだろうか。
それとも、円と円の間には「隙間が残る」のだろうか。
もし隙間が残るとすれば、その面積はいくつ?
難しい積分の本とかを見ると、どうやら「限りなく0に近づく」らしいのだが、いまひとつ実感が湧かないというのが本音である。

ところで、せっかく集めた油滴を捨ててしまうのではなく、試しに飲んでみるとどんな味がするか。
これが実に「まずい」のだ。
なんというか、ねっとりした油特有の膜が舌を覆ってしまい、味が細かく伝わってこないような感じだ。
実際の油料理でやってみるとよくわかる。
どうやら人間の舌は「強制的に操作した」油滴より、「自然にばらけた」油滴をおいしいと感じるらしい。
やはり油滴鍋は、あれこれつつくより素直に食べるのが一番良い。