人類最後の発見・発明

思えば人類は長い歴史の中で、実に様々なものを生み出してきた。
特に、近代科学が生まれてこのかた、ここ数百年の間、
人類の歴史は、発見、発明のオンパレードといってよい。
いったいこの勢いはどこまで続くのだろうか。
人類の未来は、どこまでも果てしなく広がっているのだろうか。

今後為されるであろう発見発明について、今から予測を立てるのは極めて難しい。
そもそも予測できるようであれば、新規の発見発明ではない。
それでも、人類が最後に行うであろう発見発明については、十分に予測が成り立つ。
なぜならば、その発見発明の後には、原理的に考えて発見発明があり得ないからだ。
それどころか、その発見発明は、おそらく人類を滅ぼすであろうと予測されるのである。

その人類最後の発見発明とは何か。それは、
 * 快楽中枢の発見
 * 快楽中枢を活性化する方法
である。

なぜこれが最後なのだろうか。
それは、快楽中枢を見出すことによって、
人類は「目的そのもの」を獲得してしまうからだ。

そもそも人類は何のために発見、発明を行うのだろうか。
さらに、人は何のために日々の営みを為すのだろうか。
端的にいってしまえば、それは「快楽を得るため」である。
快楽と言って聞こえが悪ければ、希望、望み、願望、夢、感動、とでも言い換えればよい。
あるいは、欲望、野望、と言っても本質的には同じである。
要は「心を満たすような、プラスの感情」を求めて、私たちは日々生きているのである。

例えば、発見とは何のために行うのか。
それが知的好奇心を満たすためだったとしよう。
であれば、最初から好奇心を満足させることができれば、
そもそも発見という行為は(本人にとっては)不要となる。
あるいは、世間からの評判、名声のために発見に血道を上げるのだ、という人もいるかもしれない。
では、何のために名声が必要なのか。
それは社会的な名誉欲を満たすため、つまり、人から褒められれば気持ちいいからであろう。
ここで、最後の「気持ちのいい状態」さえ手に入れば、手段である発見の過程はどうでも良いのではないか。

同様に、発明は何のために行うのか。
それが世の中をより便利に、快適にするためだったとしよう。
仮に、その発明によって、いままでよりずっとおいしい料理が食べられるようになったとする。
それでは、人はなぜおいしい料理を欲するのか。
それは食欲を満たすためである。
であれば、最初から食欲を直接満たすことができれば、(生存のための栄養さえ確保すれば)料理をおいしくする努力は全く不要ということになる。

いかなる行為に対しても、その結果得られる最終的な満足を先取りしてしまえば、もはやその行為自体は意味のない、冗長で迂遠なアプローチということになる。
何かを行った結果として満足を得るのではなく、「満足そのもの」を直接得ることができれば、他の行為は全て不要となるだろう。
ところで、人間は満足をどこで感じ取っているのか。
それは脳である。
もし脳の中から、満足を感じとる部位を探し当てることができれば、それは「人間の目的そのもの」を見つけ出したにも等しいであろう。
これが「快楽中枢の発見」である。

もし快楽中枢が見つかったならば、そこに適当な電気信号を送り込むことによって、我々はいつでも手軽に「最終目的」を達成することができるだろう。
現在の人類の常識からすれば、最終的な幸福に達することは極めて難しく、得難い体験であるとされている。
例えば、一生かけて努力に努力を重ねた末、最後にそれが報われたとか、様々な困難を乗り越えて大恋愛を貫いたとか、そういった体験である。
しかし人生の華も大恋愛も、全て脳が感じとる、ある種の電気信号なのである。
この、最後の電気信号さえ再現できれば、努力や恋愛は、まだるっこしい途中経過に過ぎない。
最終的な幸福に至るまでの途中経過はあまりにもコストが高く、大多数の人は支払うことができない。
それゆえ、本当に幸福な人生とは、必ずしも万人が入手できないだろうと推定される。
(推定と言ったのは、人生の締めくくりに臨んで人が何を感じるかについて、今の私は想像するしか無いからだ。)

ところが、もし幸福そのものを感じる電気信号を、脳に直接送ることができればどうだろうか。
これまでごく一部の人しか達したことのない境地を、誰もが手軽に味わうことができるだろう。
これほどまでに人類の幸福に貢献する発明は、他にはちょっと見あたらない。
「快楽中枢を活性化する方法」とは、究極の電子麻薬のようなものである。
現在の不完全な麻薬のように、中毒性や副作用は一切無い。
もしそのような電子麻薬があったなら、それを使わない理由はほとんど考えられない。
もし電子麻薬を禁止するのであれば、人間が幸福を追求する権利そのものを剥奪したことになるだろう。

これは私の推測なのだが、もし快楽中枢というものがあったなら、その反対の性質の、不快中枢というものもあるように思うのである。
しかも、この2つは隣り合わせになっていて、表と裏のように、すぐ近くにあるような気がする。
不快中枢とは、あらゆるマイナスの感情、恐怖、苦痛、苦悩、嫌悪、絶望、そういったものの根源を司る部位である。
快楽中枢を刺激すれば、人間はこの上ない幸せを感じるのだが、少しだけ間違えて隣にある不快中枢を刺激してしまうと、人間は救いようのない絶望の深淵に吸い込まれることになる。

もしこの快楽中枢と不快中枢を発見し、それらを刺激する方法を発明した人がいたとしたら、どうするだろうか。
おそらくその人は、この究極の発明を極秘に扱い、世界征服をもくろむに違いない。
プラスとマイナスの感情コントロールさえ握ってしまえば、他人を思いのままに操作することができるからである。
と、ここまで考えてみて、世界征服とはとてもばかばかしい、無駄な手順であることに気がついた。
なぜ世界征服をするのか。
それは、己の征服欲を満たすために他ならない。
ならば、その発明を使って直接自分の征服欲を満たしてしまえば、実際に世界征服する必要は無いはずだ。
つまり、この発明は、世界中の誰もが世界征服の達成感を味わえる、素敵な発明なのである。
それゆえ発明者は、この発明を特に秘密にする必要は無いかと思われる。

こういった「快楽中枢の発見」が本当にあり得るのか、少しまじめに考えてみよう。

真っ先に思い当たる反論は、
「人間の脳はそれほど単純なものでない。
あらゆる快楽が一点に集中しているような”快楽ニューロン”は存在しない。」
というものだろう。
私も、きっとそうだろうと思う。
人間の脳には、そこに電気を流せば幸せになれるような、単純な電極はおそらく存在しないであろう。
しかし、快楽中枢や不快中枢は、なにも脳内の一点である必要は無い。
上では話を単純化するために、脳の特定部位であるような言い方をしたが、
それが例えば「快楽パターン」であったり、あるいは「快楽の共通因子」であっても話の本筋は変わらない。
要は、
  * 人間が快楽を感じる仕組みを科学的に解明すること。
 * 電気刺激や薬品などの物理的な手段によって、快楽を直接的に生み出すこと。
この2つが実現できればよいのである。

次に思い当たるのが、
「快楽とは一定の状態ではなく、上昇するその過程にあるのだ」
とするもの。
数学のたとえを借りて言えば、快楽とは、ある生理的な特定の値そのものではなくて、その値を微分したもの、つまり右上がりの傾きであるということだ。
微分が負になったとき、つまり右下がりの傾きだと、人間は快楽の反対の感情、不快を感じることになる。
なので快楽は、いつまでも恒久的に持続させることはできない。
たいていの人生は上がったり下がったりするから、それに応じて、人は一喜一憂することになる。
禍福はあざなえる縄のごとし。

この「快楽微分説」なるものは、それなりに説得力を持つ気がする。
人はいかなる境遇にも飽きるし、また、慣れる。
幸福とは、境遇が上向きに変化する瞬間に、
不幸とは、境遇が下向きに変化した瞬間に、
生じる感情なのであろう。

そうであれば、仮に快楽中枢が発見されたとしても、人類は永遠の幸福を手にすることはできないだろう。
持続的に幸福を得るためには、与える電気刺激を常に上昇させなければならない。
一方、脳が受け容れ可能な電気刺激には物理的に上限があるものと考えられる。
麻薬というものには中毒性があり、幸福を感じ続けるためには、少しずつ使用量を増やしてゆかなければならないと聞く。
しかも麻薬が切れたときには、反対にどっぷりと不幸に漬かるらしい。
この性質は、おそらく電子麻薬であっても変わるまい。
電流を流し続けている間は良いかもしれないが、スイッチを切った瞬間、揺り戻しで思い切りブルーになるに違いない。

しかし、もし幸福が上昇にともなって得られる感情だったとしても、それが快楽中枢の刺激を否定する理由にはならないと思う。
もし人生の価値が幸福の積分、すなわち「一生を通じて受け取った幸福を全て足し合わせた量」で決まるとしたら、人生の価値はスタート地点とゴール地点の落差で決まることになる。
そして、この定義に従って人生の価値を最大にしようと試みたならば、次のような人生が最も価値が高いということになる。

幸せになる電気刺激を与え続けて、飽きたら刺激を徐々に強くしてゆく。
やがて脳が耐えきれなくなって、そこで死ぬことになったとしても、それは本望のはずだ。
なぜなら、理論的に考えて、彼はこの世における最高、最大の幸福を受け取って死んでいったからである。
これ以外の人生で与えられる幸福の総量は、電気刺激の人生を決して上前ることはない。
なぜなら、彼の脳は、もともと電気刺激で与える以上の幸福を受け取ることができないからだ。
だったら、幸せになれるかどうかも分からない不安な人生を送るより、確実に、自分に与えられた最大幸福を受け取った方がずっとよい。

遠い未来には(あるいは思ったよりも近い未来には)、快楽中枢という、人間の根源に迫る謎が科学的に解明されることだろう。
そのとき、人類はどうなるだろうか。
おそらく人類の大半が、その恩恵にあずかることになるだろう。
発見された当初は、人々は懐疑的になるかもしれない。
人間の尊厳や、倫理に反するとか、どうも肌になじまないとか、そういった理由で、快楽中枢の操作に反対する意見が湧き起こることになるだろう。
しかし、その反対意見が湧き起こるのは、長くて2〜3世代の間なのではないか。
因習にとらわれない若者たちは、快楽中枢の刺激を喜んで受け容れるだろう。
他人に迷惑をかけるわけでもないし、どちらかと言えば地球環境にもやさしい。
そして、一度受け容れてしまえば、得られるものはあまりにも大きい。
なにせ「夢」が、その場で手に入るのだ。
今日の世界では、志半ばに倒れる人生があまりにも多すぎる(と思われる)。
快楽中枢の刺激は、そうした人々を救う、最後の発明なのだ。


  人生に何の意味があるか。


その意味を「科学的に」とことんまでつきつめると、快楽中枢にたどり着く。


あるいは、こうも言えるかもしれない。
仮に「人生に何の意味があるか」という問いに、誰もが納得する、確実な答が見つかったのだとしよう。
その答が見つかった瞬間に、あらゆる人間の営みは停止することになる。
なぜならば、人類は「答そのもの」、「意味そのもの」を見つけてしまったのであり、それ以上の探求や試みには「何の意味もない」からである。
であれば、いまのところ人生に意味が見つからないのは、極めて幸いなるかなと言わねばなるまい。

さて、人類の大半が快楽中枢の刺激を受け容れるようになった、その先には何があるのだろうか。
おそらく、


  人類の大絶滅


が来るものと思われる。
人間は、もうこれ以上何もしない。
何もする必要がないのだ。
生きている必要さえ無いのである。
たとえ生きていたとしても、今、与えられている電気刺激以上のものには、決して巡り会えないのだから。
最初から答が与えられている問題のようなものだ。
最高の快楽に触れた後は、生きていようがいまいが、どうでも良いのである。
あるいは、人類は絶滅しないまでも、電子麻薬の夢にどっぷりと浸かって、あえてそこから出る愚行を犯さないであろう。
(夢から覚める瞬間に、巨大な絶望に襲われることを思い起こして欲しい。)
こうして人類は、静かに、そして幸せに収束を迎えるのである。

こうして人類のストーリーは幕を閉じるのだが、大絶滅(あるいは大ひきこもり?)以後の世界はどうなるのか、さらに想像を広げてみよう。

大絶滅の後であっても、電子麻薬の夢に入れなかった、ごく一部の人間が生き残るであろう。
その人たちは、文明の主流から取り残されたのかもしれない。
あるいは、とても頑固であまのじゃくで、何の理由もなく、かたくなに電子の夢を拒んだ人たちなのかもしれない。
どのくらいあまのじゃくかというと、今風に言えば、宝くじで大金があたっても、何の理由もなく受け取り拒否するようなものである。
そういう「とり残された人々」が、決して数は多くないだろうが、必ずや存在するだろう。

科学が生んだ究極のユートピアを、あえて拒んだわずかの人間たち。
その先には絶望しか無い。

もし夢や希望を糧に生きるのであれば、電子の夢に加わるのが最も合理的な判断だからである。

だとすれば、残された人々が生きてゆくのは、快楽や夢や希望を行動の原動力としない、真に絶望に耐えうる人間だけが暮らしてゆける世界であろうと想像される。

それまでの間(もちろん現在もそうなのだが)、人類は、いわば快楽というご褒美によって営みを続けてきた。
快楽中枢が発見されることによって、いままで用いてきた「ご褒美」は、全て無効となるのである。

快楽と言えば聞こえが悪いが、もう一度繰り返せば、これは「夢も、希望もない」ことと同義である。
大絶滅以後の世界では、「夢や希望があって、そこに向かって前進する」といった、今日の常識は、もはや全く通用しない。

そこに住む人達は、いったい何を原動力として生きてゆくのだろうか。

夢や希望を原動力として生きている私には、全く想像がつかない。
それでも、人間(あるいは人間からさらに進化した何物か)は、夢や希望や絶望をも超越した世界で、きっと生き続けてゆくのだろうと想像されるのである。


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付け足しとなるが、今日普及しつつある、コンピュータの作り出す仮想世界は、上に書いたような「電子麻薬の夢」の黎明期にあたるのではないかと思えてくる。
そして「恋愛シミュレーションゲーム」のような仮想体験に快楽を感じ、現実世界の対人関係をうまく築けない人たちは、来るべき「人類の大絶滅」を一足早く先取りしているものと考えられる。

そうなると、今の段階から少しずつ淘汰が進んでいって、ある特定の時期に目立った大絶滅は起こらず、緩やかに、自然に「健康な人類」に移行するのかもしれない。