(3) 学者は互いにつるんでイビツな世界を作り上げている

以下は「電磁気学は間違っていた?! 〜 新・電子論」に対する反論です。

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* 論点3:数学者と物理学者は互いにつるんで、
* 自分たちだけにしか理解できないイビツな世界を作り上げている。

物理や数学に明るい人であれば、「何を世迷い事を」と鼻先で笑うかもしれない。
しかしこれと同じことが、全く別の分野、例えば「現代芸術」についてあてはまらないだろうか。

私は芸術についてはズブの素人である。
素人目からすると、なぜ抽象芸術なるものが存在するのか、全く理解に苦しむ。
そもそも芸術とは、見て美しいと感じるかどうかが全てのはずだ。
しかるに、一部の(というより大半の)抽象芸術作品について、私は珍奇という以外に何の感慨も湧かない。
私の感覚だけがおかしいのだろうか。
周囲に尋ねてみると、どうやら私だけが異常だというわけでもなさそうだ。
してみると、抽象芸術の作家は、普通の具象的な作品を作れるのだろうか、
単に大衆をだましているだけなのではないか、と疑いたくもなる。
少なくとも、絵が上手い人には理解不能なオブジェよりも、
素人の目を喜ばせるような作品を作って欲しいなと常々思っているわけだ。

私は今でも「現代芸術」を疑っている。
それでも、私の疑念を多少なりとも緩和したことが、2つある。
以下にお話しよう。

1.初期のピカソの作品は、文句なくすばらしい。

抽象芸術の代表格であるピカソも、最初からいきなり抽象だったわけではない。
いわゆる「青の時代」の作品は、素人の私から見ても十分にすばらしい。
これほどの人が入り込んでいったのだから、抽象の世界にもそれなりの理由があるのだろう。
このことは1つの判断基準となる。
初期の段階で、素人目に見て明らかに長じていた人が後々入っていった世界であれば、
それなりの理由があるに違いない。
逆に言えば、初期の段階から素人目に見て理解不能なものは、何かがおかしい。

2.現代数学をかじってみると、逆に少しだけ、現代美術の言いたいことがわかってきた。

これは我ながら以外な発見だった。
両者を結ぶキーワードは「抽象化」にある。
なので、現代芸術の良さが感じられる人は、
ひょっとすると現代数学にすごく向いているのかもしれない。
ここに、もう1つの判断基準がある。
表面的に全く異なる分野で似たような傾向が見られたならば、
両方が同時に間違っている可能性は低い。
逆に言えば、他のいかなる分野にも類似が見あたらないものは、何かがおかしい。

以上の2点からすると、現代美術とは全くのでたらめではないように思える。
私には未だに理解できないのだが、現代美術には現代美術なりの、
何らかの世界を形作っているのであろう。

同じ基準を数学と物理にあてはめれば、
たとえ内容が理解できなくても、およその正邪の区別がつく。

小学校の算数、理科は、素人を寄せ付けぬ意固地な世界だろうか。
芥川龍之介は「数学のできない者には、良い小説は書けない」と言っていたようだし、
寺田寅彦は、科学者と芸術家は「存外に近い肉親の間がらであるように思われて来る」と述べている。

してみれば、物理と数学は孤立した偏狭な世界というわけでもなさそうだ。

歴史を振り返ると、難解を極めた後に、静かに衰退していった営みはいくつもある。
ここでスコラ哲学や和算の例をひもとくべきなのだろうが、
不慣れな話をするより、もっと身近なものに目を向けてみよう。

君は、シューティングゲームを知っているか。
シューティングゲームとは、戦闘機をあやつって敵を打ち落とすという、
単純でストイックな電子ゲームのことである。
時代を風靡した「スペースインベーダー」を皮切に、
一時期は街角のゲームセンターで普通に見かけたものだ。
シューティングゲームの歴史は、コンピュータ普及の歴史でもある。
コンピュータの性能向上に合わせて、ゲーム内容も発展の一途をたどっていった。
白黒からカラーへ、ギザギザの四角形からなめらかなグラフィックへ。
ところが、コンピュータの性能向上にも増して、それ以上の速度で向上していったものがあった。
それは、ゲームを楽しむプレイヤーの腕、プレイヤーの学習能力だった。
最初の頃は難しいと感じたゲームであっても、
回を重ねるにつれて少しずつこなせるようになってくる。
楽しく遊びながら学習する速度は速い。
あれほど難しかったゲームが、いつのまにか簡単なものになる。
一度簡単になってしまうと物足りない。
次々に登場する新作は、プレイヤーの腕に合わせて、これでもか、これでもか、と難易度を上げていった。
そしてふと気がついてみると、シューティングゲームはとてつもなく難しい代物に化けていたのである。
画面いっぱいに広がる弾幕、ほんのわずかの抜け道、確立して固定化した様式、
とても素人が入り込む余地はない。
かくしてシューティングゲームは、ごく一部のマニアだけしか楽しむことができない閉鎖的な娯楽となり、
他の種類の電子ゲームが流行る中、ひとり静かに衰退を迎えたのである。

高尚な学問と、たかが遊びのシューティングゲームなど、比較するのもおこがましいだろうか。
確かに両者は全くの別物ではあるが、少なくとも次の経緯だけは似通っている。
* もともと楽しみから生じたものであり、
* 学習につれて少しずつ発展し、
* 気がつけばとてつもなく高い境地に達していて、
* 今となっては素人が簡単に入り込むことができない。

現在シューティングゲームでは、難易度を変えてみたり、初心者向けの趣向をこらしたりして、
新規ユーザー獲得の努力を行っているようである。
これと同様のことが、物理や数学の世界にも起こってはいないだろうか。
願わくはマニアックなしきたりに固執せず、
新参者にも開かれた世界であって欲しいと思うのみである。

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* 論点4:物理や数学の理論など無用の長物。
実社会の現場には何の役にも立たない。
http://d.hatena.ne.jp/rikunora/20080408/p1

に続く