(2) なぜ マイナスxマイナス=プラス となるのか

以下は「電磁気学は間違っていた?! 〜 新・電子論」に対する反論です。

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* 論点2:なぜ マイナスxマイナス=プラス となるのか。
* それは数学者がでっち上げた「決めた者勝ち」のルールなのか。

最も簡単な説明。
「反対の反対は、もとに戻る。」
「裏の裏は表。」

ならば、これはどうか。
「返さないとは言わない。」
この言い方は
「返す。」
と同じ意味ではない。
二重否定は、必ずしも肯定ではないのだ。

そこで次なる説明は、数直線を描いてみる、というもの。

プラスは右向き、マイナスは左向き、と解釈する。
そして、(x1)とは、そのままの状態でいること。
(x(-1))とは、まわれ右で反対に向くことだと考える。
例えば -3 x -5 は、-3 x (-1) x (+5) 、つまり
最初は左を向いて、次に回れ右をして、3 x 5 だけ進むということだ。

この説明で納得してくれる人もあるかもしれないが、
なんとなくごまかされた、と感じる人もまた多いかと思う。

この説明でいかがわしい点は、「右向き、左向き」という状態と、「まわれ右」という操作が、
何の断りもなく同じマイナス記号にすり替わっていることだ。
「右向き、左向き」はモノであり、「まわれ右」はコトである。
「名詞」と「動詞」をごちゃ混ぜにしているではないか。

さらに上手な説明は、こんな風になる。

進んだ距離とは「速度x時間」である。
プラス3の速度で、5分間進んだら、右に15だけ進む。
マイナス3の速度で、5分間進んだら、左に15だけ進む。
それでは、マイナス3の速度で進んでいるものが「5分前には」どこにいただろうか?
5分前には、右に15の地点にいたであろう。
5分後=プラス5分、5分前=マイナス5分、のことだ。

これで納得しない人は、よほどの強者かと思うのだが、それでもチラホラ見かける。
大体において、この質問を発する人の真意は「数学なんて嫌っ!」というところにある。
なので、説得するのは並大抵のことではないのだ。

こんな反論を持ち出されたらどうするか。

時間の流れとは何か。
誰もが時間を感じてはいるが、改めて時間とは何かと問われると、誰も明確な説明を為しえない。
上の説明では、何気なく「マイナス5分」を導入しているのだが、
果たして時間は距離と同様に、一様な数直線としてとらえられるのだろうか。
距離について後戻りすることはできても、時間を反転できた者はいない。
であれば、距離にマイナスがあるのはわかるが、時間にマイナスがあるのは変ではないか。
そもそも速度や時間は物理の話であって、純粋な数学の話ではない。
ある数学記号を、たまたま表現できる物理現象があったからといって、
元の数学記号まで正しいと認めるのはおかしい。
もしかすると数学記号に一致しない、別の現象があるかもしれない。
例えば私は、落ち込んだときに、さらに悪い知らせが重なると、何倍も鬱になる。
物理学では「マイナスxマイナス=プラス」なのかもしれないが、
心理学では「マイナスxマイナス=マイナス」の方が実情をよく表しているのではないか。

ここに至ると、もっと本格的な数学を導入せざるを得ない。

前提として、分配法則を正しいものと認める。
(a + b) x c = a x c + b x c
すると、
(3 + (-3)) x (-5) = 3 x (-5) + (-3) x (-5) = (-15) + (-3) x (-5)

(3 + (-3)) = 0 だから、上式の結果は 0 x (-5) = 0 になるはずだ。
であれば、(-3) x (-5) = (+15) としなければ、全体のつじつまが合わない。

これは説明としては申し分ないが、説得される側の気持ちとしてはどうだろう。
力業でねじ伏せられた、渋々認めさせられた、と感じるのではないか。

「ブンパイホウソク」って何。
確かにこの法則は、プラスの数では成り立っているかもしれない。
しかし、存在するかどうかも定かでないマイナスの数について、
そのまま適用できるという保証はあるのか。
マイナスの掛け算の不都合を、分配法則という手の届きにくい神秘の領域に押し込んだだけではないか。

つまるところ、いかなる説明をもってしても、
初めから納得しない(したくない)と決め込んでいる相手を改心させるのは不可能なのだ。

ならば、どうするか。
別に納得させる必要はない。
どうしても「マイナスxマイナス=プラス」のルールが気に入らなければ、
「マイナスxマイナス=マイナス」となるような、別の体系の数学を作ってしまえばよいのだ。

「マイナスxマイナス=プラス」は、実は1つの約束事に過ぎない。
懐疑派が思っている通り、人が決めたルールなのである。
最初から「宇宙の真理」だったわけではない。
ただし、一部の数学者が「勝手にでっち上げた」ルールではない。
そこには、全ての数学者が従わなければならない、厳然たる掟が存在しているのである。

数学は学問の女王である。
実のところ、数学ほど制限の少ない、自由な世界は他にはちょっと見あたらない。
物理は現実の世界に一致していなければならないが、数学は現実の世界と一致する必要はない。
たとえば(古典)物理で空間は3次元でなければならないが、
数学では4次元だろうと10次元だろうと、果てには複素無限次元であろうと一向に構わない。
それが現実に存在するかどうか、役に立つかどうかは、数学の正しさとは全くもって無縁なのである。
空間がねじ曲がっていても構わない。
一本の直線に対して、直線外の1点から、平行線が無数に引けるという世界もあり。
平行線が1本も存在しないという世界も、またそれはそれであり。
数というものが全部で2個しかない世界もあり。
数学でありながら、数というものが全く登場しない世界もありだ。
つまり数学の世界では、およそ人間が頭に思い描けるものは何でもありなのである。
その意味で、数学の世界はファンタジー小説に近い。

しかし、たった1つだけ、厳然たる掟がある。
その掟とは、
「矛盾がないこと。」
数学の掟は、この1つだけである。

ファンタジー小説を例にとってみよう。
小説中に魔法が登場しても構わないし、時間旅行ができても構わないし、超光速度宇宙船があっても構わない。
だからといって何でもありの、安易なご都合主義は、読んでいておもしろくない。
なぜか主人公だけが魔法が使えて、理不尽に幸運に恵まれて、
おまけに素性良く大金持ちでモテモテだったなら、全くの興ざめであろう。
現実に存在しない魔法があってもよいのだが、
せめてその小説の中には小説の中なりのルールがあって、
主人公も、敵も味方も、みんながそのルールに従っていなければならない。
そして、小説の中で、そのルールは最後まで破綻してはならないのだ。

数学もファンタジー小説と同じだ。
何を登場させても構わないのだが、自己破綻してはいけない。
そして、矛盾についての検証基準が、ファンタジー小説よりもずっと厳しい。

「マイナスxマイナス=マイナス」というルールが数学の主流に採用されているのは、
いまのところこれが最も矛盾の少ないルールだからである。
決して有名な数学者の権威で押しつけたのではない。
もし仮に「マイナスxマイナス=マイナス」というルールを採用して、
それでいて矛盾の無い体系を作り上げることができれば、それはそれで立派な1つの数学になる。

たとえば、かけ算の交換法則を満たさない数学は立派に存在している。
行列のかけ算や、ハミルトンの4元数などがそうだ。
そこでは AxB と BxA が等しくはならない。
そういった例もあるので「マイナスxマイナス=マイナス」となる数学も、
がんばればできるのかもしれない。

しかし、ちょっと考えただけで、それは相当困難な作業となることを覚悟して欲しい。
まず、先に挙げた分配法則と両立しない。
そこで分配法則をあきらめたとすると、ならば
(3 - 3) x (-5)
の答はいくつになるのか、という疑問が生じる。
そこで、必ず()の中を先に計算する、というルールを付け加えて、
上式の答は 0 x (-5) = 0 だということにしよう。
ところが、必ず()の中を先に計算しなければならないのであれば、
いわゆる「くくりだし」という操作は一切使えない。
x^2 - 2x + 1 = (x-1)^2 といった因数分解は全てだめ。
2x + 3x = (2 + 3)x = 5x もだめだろう。
ということは、この数学では、次の問題を解くことができない。
「買い物かごにまず2個入れて、後から3個追加して、レジに持って行ったら500円だった。
 1個何円だったでしょう。」
そこでさらに、「プラスの数に限ってくくりだしが可能」というルールを付け加えよう。
すると、・・・
この調子で、おそらく(普通に使っている主流の)数学のほぼ全域に渡って、
矛盾を回避する調整を行う必要に迫られることになる。
もしその調整ができる、というのであれば「マイナスxマイナス=マイナス」は
一人前のルールとして認められることだろう。

「矛盾がないこと。」
これが表向き数学唯一の掟なのだが、
実は、数学にはこの他にもう1つだけ、暗黙の了解がある。
それは
「美しいこと。」
なのである。
数学ほど厳密な体系の基準が、厳密でもなければ客観的でもない「美しさ」に依存するとは、
ちょっと以外だろう。
しかし実際、多くの数学を愛する人たちは、ある種の美的感覚が大切だと思っている。
なので、「明示的な掟」ではなく、「暗黙の了解」なのである。

ファンタジー小説で言うなれば、暗黙の了解として「おもしろく」なければならないだろう。
しかし「おもしろさ」とは何か、と改めて問われると答に窮する。
読んだ結果として個々の読者がそれぞれにおもしろいと感じるわけで、
最初から「こうすればおもしろい」といった決まりあるわけではない。
それと同じで、数学でも「これが美しい」と最初に定義しておくことはできない。

プラスとマイナスの例で言うと、ちょうど光と影が正反対で、
同じ強さになっているのがバランスがとれていて美しい。
プラスとマイナスをそっくり入れ替えれば、元の姿と同等になってるのが、美しいと感じるわけだ。
プラスとマイナスの掛け算を並べてみよう。
プラス xプラス =プラス
プラス xマイナス=マイナス
マイナスxプラス =マイナス
マイナスxマイナス=プラス
この表に登場する「プラス」と「マイナス」の数は、それぞれ6個ずつで等しい。
プラスとマイナスは、一見するとバラバラなようだが、よく見ると列ごとに、ある種の規則性を持って並んでいる。
ここで、最後にあるプラスをマイナスに変えてしまうと、何か全体のバランスを崩してしまうような、
調和を損ねるような気がしてならないのである。

美しさやバランスといったものに、それ以上の理由はない。
「いや、私はちっとも美しいとは思わないのだが」と言われていまえばそれまでだ。
なので、美しさについては教科書で教えることができないし、万人に共通の感覚であるかどうかも疑わしい。
できれば1人でも多くの人に、この美的感覚を味わってほしいと願うのみである。

なぜ マイナスxマイナス=プラス となるのか。
真の理由は、このルールが最も美しいからなのである。
そっくり入れ替えても、元の姿と同等になっていることを、
数学の世界ではよく「対称性がある」という言い方をする。
対称性の感覚は、数学の根っこにかなり深く染み渡っている。

ただ、正直なところ日本人の私としては、
きちんとした対称性にはどことなく西洋合理主義の臭いが感じられ、肌身に馴染まない。
西洋流の人工的な美に対して、東洋に見る非対象な、自然な美があってもよいように思う。
これは単に私の好みなのだが、全くのバラバラというわけでもなく、
かといって完全にそろっているというわけでもなく、
いわば隠し味のように、少しだけ対称性を欠いているというのが最も美しいように思う。
例えば、日光東照宮の陽明門には、1本だけ模様が逆になっている「逆柱」がある。
非対称な部分を作ることによって、わざと完全に過ぎる姿を崩しているのだ。

再びプラスとマイナスの話に戻ると、マイナスxマイナスをいきなりマイナスにしてしまうのは、
あまりにも対称性を崩しすぎている。
これは全ての柱がばらばらな建築物のようなもので、ちっとも美しくない。
かといってきっちりと対称に整っている姿というものも、また完全に過ぎると感じる。
欲を言えば、非常に細かいちょっとしたところで微かに対称性に欠いており、
そのため全体がほんの少しだけプラスに傾いているといったような、
そんな数学があったら極めて美しいと思う。

幸い日本には優秀な数学者がたくさんいらっしゃるので、
日本の美的感覚に基づいた、美しい数学を築いて欲しいものである。

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* 論点3:数学者と物理学者は互いにつるんで、
自分たちだけにしか理解できないイビツな世界を作り上げている。
http://d.hatena.ne.jp/rikunora/20080407/p1

に続く