(1) マイナスの数とは、実在しない虚構である

以下は「電磁気学は間違っていた?! 〜 新・電子論」に対する反論です。

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* 論点1:マイナスの数とは、実在しない虚構である。

この論点は、つきつめると「実在とは何か」を問うた哲学的な議論にまで発展する。

最初に警句を発しておく。
「あらゆる議論は、最後には認識論に陥る」-- 詠み人知らず。

マイナスの数の実在については、なにもこの場で初めて指摘されたことではない。
歴史的に見れば、虚数も、マイナスの数も、登場した当初には実在が疑われていたのである。
x^2 + 1 = 0 の答は、と問われたとき、昔であれば「あてはまる数は無い」とするのが普通だった。
同様に x + 5 = 3 の答も「あてはまる数は無い」が、むしろ常識だったのだ。

マイナスの数は、最初から何の抵抗もなくすんなりと受け入れられた訳ではない。
マイナスの数が「実在」の概念として受け入れるまでに、人類はそれ相応の時間を費やしてきた。
借金の計算や、空間座標に便利だからといった実用的な理由で、
マイナスの数は少しずつ浸透していったのである。

もし「リンゴを並べたり切ったりして示せる」ことが実在であるならば、
自然数、少数、分数が実在であって、それ以外の数は全て虚構ということになる。
これはある意味自然な見方という気もするが、とことん疑えば、さらに疑い進むこともできる。

5個や10個のリンゴであれば並べて示せるのだが、
例えば一兆個のリンゴを実際に並べて示せるだろうか。
あるいは、一兆まで実際に数えた人はいるのだろうか。
仮に一兆円入った通帳を見せられたとしても、だめである。
通帳に書かれた金額は「銀行員のお約束によって作り出された記号」であって、実在ではない。

実際に指折り数えられないほどの大きな数は、並べて示すことができないのだから、
はっきり実在するとは断言できないのだ。
ものすごく多数の、ありの大群や米粒の山を目の当たりにしても、
それを正確に数え上げて確認したのでなければ「実在」ではない。
山に含まれる米粒が「恐らく100万粒程度であろう」という予想は、あくまでも想像上の産物に過ぎないのである。

以下の詭弁は全て、リンゴを並べることによって否定はできない。
1.非常に大きなある特定の数、例えば「一兆」という数は実在しない。
  そこだけがポッカリと抜け落ちている。
2.非常に大きな数まで数えると、実はいつのまにか一巡してもとに戻ってくる。
3.非常に大きな数まで数えてゆくと、その先の数列は1列ではなく、複数に分岐している。

「リンゴ」を元にする限り、実在する数とは、せいぜい数千程度までだということになる。

それどころか、5とか10とかいった、あたりまえの自然数でさえも、
論じ方よっては「実在しない」と押し切ることができる。

例えば3より大きな数が数えられない、未開の民族がいたとしよう。
この民族が知っている数詞は「1、2、3、たくさん」だけである。
仮にリンゴ1個が魚1匹と同じ価格(!?)だったとして、
5個のリンゴを持って行っても、4匹の魚としか交換してもらえない。
10個のリンゴでも、やはり魚4匹となる。
なぜか。
この未開民族にとって、5個のリンゴとは「たくさんのリンゴ」であり、
4匹の魚とは、また「たくさんの魚」だからだ。
してみれば、いま目の前に5個のリンゴを並べたとしても、
そこにある確かな「実在」はあくまでも「リンゴ」だけであって、
「5」というものが実在するわけではない。
もし「5」が確かな実在であれば、未開民族であろうと、猿だろうと犬だろうと、
等しく認識できるはずだからである。

「5」という数字自体は、どこにも実在しない。
強いて言えば、数字が存在するのは高い文明を有している我々の頭の中だけである。
もし「文明国の」我々が集団幻覚のようなものに襲われていて、
みんなそろいもそろって奇妙な数字の夢を見ているのだとしたら、
ふと我に返ったとき、数字に関する全てが間違いだったことに気づくのではないか。

こうなると、疑いはどこまで行っても止まらない。
「エネルギー」は実在するのか。
「質量」は実在するのか。
「知性」とは何か。
「愛」とは?

これが最初に掲げた「あらゆる議論は、最後には認識論に陥る」ということなのだ。

あらゆる存在を、一度はとことんまで疑ってみるという方法自体は、決して悪いことではない。
デカルトに始まる思索は、全てここに源を発しているのだから。

極論すれば「数は実在しない」といっても間違いではない。
間違いだと否定し切れる根拠はない。
しかし、ならば問おう、「実在しないものは、全て間違いなのか」と。

例えば「明日の9:00に合おう」という待ち合わせの約束は、今日の時点においては実在しない。
実在しないからという理由で、約束を平気で破るだろうか。
あるいは「もし雨が降ったら」とか、「もし100万円あったなら」といった仮定の話も、実在しない。
実在しないものに対して何の考えも持てないのであれば、雨天時の用意も、予算の分配も、何もできない。
あらゆる判断の少なくとも一方は実在しないのだから、もし「実在しないものは、全て間違っている」のなら、
そもそも判断するという思考を行うことができない。
つまり、何も考えられない。

実在しない抽象概念を操作する能力、これこそ人間に与えられた特別な能力である。
実物がないと何も理解できないという人は、疑り深いを通り越して、単に能力が欠けている。
リンゴを並べなければ嘘だという人は、想像力が欠如していると言われても仕方ないであろう。
「実在するか、しないか」と、「正しい、間違っている」は、全く別のことである。
虚数は実在しない、マイナスの数は実在しない、そもそも数というものは実在しない、大いに結構。
実在しない対象について、人に与えられた想像力の限りを尽くして、正しい姿を追い求めるのが数学なのだ。
(物理であれば、そうはならない。実在する実験結果に合わないといけない。)

以上の反論をまとめてみよう。

* 実在とは何かの定義にもよるが、極端な見解をとった場合、
 「数は実在しない」と言っても間違いではない。
 これは何も数に限った話ではなく、あらゆる存在は方法的に疑うことができる。

* たとえ実在しなかったとしても、議論に何ら不都合は無い。
 人間は、実在しない抽象概念を操作する能力=想像力を持ち合わせているのだから。
 「実在しないから間違っている」という図式には何の説得力も無い。

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* 論点2:なぜ マイナスxマイナス=プラス となるのか。
それは数学者がでっち上げた「決めた者勝ち」のルールなのか。
http://d.hatena.ne.jp/rikunora/20080406/p1

に続く