人格公開の刑

最も重い刑罰としての、死刑の可否が議論されている。
自由と人権の国、フランスでは死刑を廃止して久しい。
では、日本はどうするか。
科学の国、日本として、死刑よりもっと効果的な刑罰をここに提案しよう。
それは「人格公開の刑」である。
残念ながら、この刑罰を実施するためには、脳科学、人間科学、社会科学のさらなる発展が必要となる。
なので、以下は近い将来、死刑にとって変わるであろう制度についてのお話である。

「人格公開の刑」とは、その人の持つ人格、記憶、思考、行動パターン、遺伝子配列、身体特性、摂取した物質、酵素の量、その他あらゆる個人情報データの全てを公開する、という刑である。
いわば「完全なオープンソース」である。
この刑に処せられた人間は、本当の意味でプライバシーゼロ、何1つ隠されたものを持たない。
その人が何を考え、何を判断し、何を行うか、その全てがわかってしまう、ということだ。

なぜ「人格公開の刑」が死刑よりも恐ろしいのだろうか?
あまりピンとこないかもしれないので、以下に想像してみよう。
一見すると、プライバシーと共に失うものは、さほど大きくないようにも思える。
コッソリと恥ずかしい本を見れないとか、不倫や浮気ができないとか、その程度ではないか。
いっそ開き直って公開すれば、かえってすがすがしい人生を送れるかもしれない。

確かに、現在の科学レベルでは、その程度かもしれない。
しかし、将来脳科学が発達した暁には、事態はもっと深刻になる。
近い将来(あるいは遠い将来)、脳の動作を直接読み取って、今、何を考えているのか、その場でわかるような機械が開発されるだろう。
「人格公開の刑」に処せられた人は、その機械を常に身につけていなければならないのである。
そして、脳内読み取り装置のモニターには、今その人の考えていることが、そっくりそのまま映し出されるのだ。
(そういえば 脳内メーカー というサイトが話題を呼んでいたっけ。あれのリアル版と思えばよい。)
例えば、通りすがりの美人に出くわしたら、「あ、いい女、やりて〜」などといった情報がモニターに表示される。
あるいは、もっとビジュアルな映像が映し出されるかもしれない。
いやなやつに出くわしたら、「むかつくんだよ、このおっさん、死ね!」などと表示される。
そしてこのモニターは、顔の上に貼られていて、周囲から自由に見ることができるのだ。
「ブランド物が欲しいだって、生意気なんだよブスのくせに。まあ、でも機嫌くらいとっておかなきゃな、滑り止めに。」
「友人ずらしやがって、ほんとは見下してるだろ、この野郎。目的は金か?」
「うぜえんだよ、無能なくせに上司気取りやがって。ああ、ゴマをするのも楽じゃない・・・」
はっきり言おう。
もし人類全員が、この脳内読み取りモニターを装着したら、社会は崩壊する。
人格公開の刑に処せられた人は、この社会崩壊の衝撃を一身に引き受けるのである。
この状態で、いわゆる普通の社会生活を送ることは不可能であろう。
行動を起こす前に、常に衆人からのチェックを受けるので、これ以上悪いこともできない。
殺す前に「殺してやる!」と出るので、事前に殺人を回避できる。
また、テストなどせずとも脳内回路と思考パターンから、次に何を考え、何を行うのか、高い確率で予測できる。
もちろん、この予測値もモニターに公開される。
お釈迦様のように、妖怪サトリのように、全てを見透かされてしまうのだ。
「危険人物」に脳内読み取りモニターを付けておくのは、社会の平穏を保つには極めて有効な手段だと思われる。

人格公開の恐ろしさは、周囲の人間に公開することではなく、自分自身に対して公開することにある。
つまり「鏡で自分の心を映し出すこと」にある。
もし鏡というものがなかったら、人が己に対して抱くイメージは大きく変わっただろう。
恐らく大半の人は、鏡に映し出される像よりも、ずっと良いものを抱いていると思うのである。
人格公開の刑に処せられた人は、日々、己の醜い部分と対面することになる。
これは拷問に近い。
それでも、肝のすわった悪人であれば、その程度のことでは動じないかもしれない。
あるいは人間には適応能力があって「どうせ俺はこの程度の人間さ」と開き直れば、たいして苦痛ではなくなるのかもしれない。
鏡だってそのうち慣れてくるではないか。
しかし、人格公開の真の恐ろしさは、この程度ではない。
真の恐ろしさは、その人から想像力、創造力を全て奪い取ることにあるのだ。

そもそも、なぜ人は秘密を持つのだろう。
最初から嘘も秘密も持たない、完全なオープンソース状態であったなら、素晴らしい社会が築けたのではないか。
言葉をしゃべり始めて間もない、3歳児程度の子供は、思ったことは何でもそのまま口に出すのだと聞いたことがある。
つまり3歳児には、裏と表が全く無いのである。
もし裏と表に関しては3歳児のまま、清らかに成長すれば、人類はややこしい人間関係に悩まなくて済んだはずだ。
なのに、実際には大人になるにつれ、人は多かれ少なかれ必ず裏と表を作る。
3歳児のように、思ったことを全て口にする人は、まずいない。
裏と表には、わざわざ複雑な構造を用意するだけの、何か積極的な意味があるはずだ。

まっさきに思いつくのは、隠しておいた方が得をする、といった状況だろう。
例えば、こっそり食べ物を隠しておいて、あとで一人占めする、といった状況だ。
しかし、社会生活上の経験からすれば、こそこそ隠して結果的に得したことなどほとんどない。
「腹を割って」話した方が、結果的には低コスト(変に神経を使わない)で得をする。
食べ物だって、こっそり隠さずみんなで分けていれば、次の機会に今度はきっと分けてもらえるだろう。
正直は最良の策なのだ。

であれば、裏と表の本当の意味は何なのだろうか。
私は、隠された部分が想像力、ひいては創造力に直結しているのではないかと考えている。
私は他人の脳内を覗いたことがないので、以下の話が万人にあてはまるかどうか、断言はできない。
ただ、自分の脳内を省みるに、「己に対する未知」こそが重要な鍵を握っていると思えてくるのだ。

考え事の深さを決める重要な要因とは、何か。
それは「もう1人の自分」だと思う。
自問自答、あるいは「脳の中に、語ることができる友人が住んでいる」ということである。
思考というものは、言葉にして語りかけた瞬間に実を結ぶ。
わからないときには、だいたい「何がわからないのかが、わからない」。
疑問は明確な言葉になった時点で、8割方解けているのである。
なので、まず第1に「言葉にして語りかける」というプロセスが非常に重要だ。
このとき、語りかける相手がいないと、一次的、直線的な反応しかできない。
一次的な反応とは、思考が一段階だということ。
  敵 => 嫌!
  ごはん => おいしい
  女(異性)=> いい!
こんな感じだ。
ところが、ここで語りかける相手を内部に持っていれば、どうなるか。
  敵 => 嫌!=> だけど、君はどう思う => 「勇気を奮い起こせ、あんなのたいしたことはない。」
このように、二段階の思考が構成できる。
重要なのは、最後の言葉が「自分であって自分ではない、もう一人の自分」から発せられることだ。

さらに、「もう1人の自分」から多段階の思考を引き出すことができる。
分かりやすいのは、頭の中で天使と悪魔が葛藤する場面だろう。
  「神様が見ている、君はそれでも満足なのか?」
  「誰も見ちゃいねーよ、やれ、やれ、やっちまえ!」
という葛藤を、誰でも一度は体験したことがあるだろう。
このように「性格の異なった人格を頭の中で戦わせること」が、あるレベル以上の思考には不可欠だ。
賛成派と反対派を戦わせて、何段階ものプロセスを経た結論が導き出せる。
改めて文章にすると何かすごいことをやっているように思えるが(事実脳はすごいことをしているのだが)、実際には誰もが行っているアタリマエのプロセスに過ぎない。
誰もが何らかの考えを抱いているだろうし、いくらかの秘密も抱いているのだから。

さて、この「もう一人の自分」と、人格公開の間にはどんな関係があるのだろうか。
両者は影と光の関係にある。
というのは、自分の思考プロセスの全てが赤裸々に明かされると、「もう一人の自分」が持てなくなってしまうのだ。
そもそも会話というものは、相手が何を返してくるのかわからないからこそ楽しいのだ。
期待した答が返ってくるのか、意外な反応を示すのか、つれない返事が返ってくるのか。
その意外性を楽しむのが、会話の妙である。
もし会話を始める前に、既に相手が何を答えるか、結論が全てわかっていたとしたらどうだろう。
会話は実につまらないものになる、というより、おそらく会話などしない。
これと同じことが、「自分との会話」についてもあてはまる。
最初から結果が分かっているなら、自分との会話も成り立たない。
というより、自分自身の場合「もう一人の自分」を設定する意味が失せてしまう。
こう考えてみると、自分の中に「もう一人の自分」を持つ意味がわかってくるだろう。
「もう一人の自分」とは、即ち「自分の中にある、未知なる自分」なのだ。
自分の中の未知なる部分を失うことによって、人は多段階の思考プロセスを失ってしまう。
多段階の思考プロセスを失った人間は、おそらく3歳児程度にまで退化するものと思われる。

それだけではない。
人格公開は、人間のもっと根源的な存在を奪う力を持っているのだ。
あなたがひらめき、思いつき、創造、といった体験に出くわしたとき、そのひらめきはどこからやってきたのだろうか。
とても不思議なことに、それは既知の意識下に置かれた領域からやってくるのではない。
「天啓は未知の領域からやってくる」のだ。
既によく知っている、分かり切った部品を論理的に組み合わせたところで、思考の飛躍は望めないであろう。
ここは大事なところである。
真の創造は、あなた自身が作り出すと言うよりも、あなた自身もよく知らない未知の部分から湧いてくるのである。
意識は、湧いてきたものを後から整理しているだけに過ぎない。
むしろ人間の核心部は、よく知らない未知の部分の側にある。

なぜ未知の部分に創造の源泉があるのか、私にもよく分からない。
私だけでなく、原理的に、この謎が解ける人はいないはずだと思う。
何せ未知の部分なのだから。
私は、人間の思考には2種類あるのではないかと思っている。
1つは論理的な思考、いま1つは夢想的な思考である。
(それが、よく言われる右脳と左脳に関連付いているかどうかは、よくわからない。たぶん違うと思う。)
そして意識は論理的な思考を司り、夢想的な思考の大部分は未知の領域に属している。
数学とコンピューターが発達した現代から見れば、論理的な思考とはさほど難しいものではない。
P ならば Q であるとか、包含関係とか、AND, OR, NOT を組み合わせることによって論理的な思考は実現できる。
その気になれば、論理的な思考は機械にでも代替が効く代物だ。
そうなってみると、機械に代替の効かない夢想的な思考の方に、自ずと興味が移る。
夢想的な思考とは、思考の断片の海のようなものだと思う。
ぼーっとしているとき、夢から覚めたとき、あるいは夢の中で、思考の断片は非論理的に、何の脈絡もなく、くっついたり離れたりする。
そうした数限りない思考の連鎖の中から、あるとき偶然目的に見合ったものが進化してくるのだろう。
思考の形成は、進化のプロセスに似たところがある。
原始の海洋で、RNAだかアミノ酸だかが偶然結合したように、脳という海の中で、記号とイメージの断片がとりとめもなく結合を繰り返す。
そしてあるとき、神のみわざとも思える奇跡によって、脳の海の中からまとまった思考が浮かび上がってくるのだ。
こんなプロセスが、あたりまえのように日々の脳内で繰り返されていることを思うと、改めて人間とは存在自体が奇跡なのだと思えてくる。

さて、以上の創造のプロセスを念頭に置けば、人間にとって「未知なる部分」がいかに重要か、分かることと思う。
「人間の核心部は、よく知らない未知の部分の側にある」のだ。
そして、未知の部分を失うことは、実は人間そのものを失うにも等しいのである。
人格公開の真の恐ろしさは、人間から未知なる部分を消し去ることにあるのだ。
確かに、自分のこっそり行っていた行為が恥ずかしいとか、まとまった考えが持てなくなるとか、それも嫌なことには違いない。
それでも、たかが恥ずかしい程度では、死刑に比べれば何てこともない。
そんなことを言っているのではない。
人間から未知の部分を消し去ることは、実は死よりも恐ろしいことなのである。
人格の完全な公開とは、思考の海に埋もれたイメージの断片を、全てさらってきて日干しにするようなものだ。
それは、間違いなくその当人の人格を破壊するであろう。
おそらく、人格公開を行った後の人間は、発狂するか、自ら死を選ぶことになると思う。
死刑で殺せば怨念が残る。
人格公開の後、自殺を選ぶ人間には、怨念すら残らない。

昨今の世の中には、何でもオープンにして、公開すれば全てが解決するといった風潮が行き渡っているような気がする。
しかし私は、どうもこの風潮にはなじめない。
どこぞのCMのように、つながる、つながる、とかいって喜んでいるのは、人間というものをまったくわかっちゃいない。
いわゆる「表」の、ほんの表層部分だけしか見ていないのである。
そういう人には、ほんの少しで良いから自己の深淵を覗かせてみたいものだ。

社会的に多少の混乱があったとしても、人に裏表は欠かせないのだ。
第一、秘密の無い人生なんて、つまらないではないか。

死後の世界、あるいは天才の作り方

ずいぶん昔の話となるが、かつて私の通っていた幼稚園は、
教会が運営していたところだった。
そこで幼いころ、私はこんな話を聞いた。

「誰も見ていないと思っていても、神様はちゃんと見ています。
良いことも、悪いことも。
いつも良いことをしてきた人は、最後には天国に行きます。
でも、悪いことばかりした人は、天国には入れません。」

今にして思えばたいへんありがたいお話だと思うのだが、
当時の私は幼心に、神様はちょっとずるいなと思った。
神様はこっそり隠れて見てなんかいないで、
悪いことする前に助けてくれればいいじゃないか、と思ったのである。
悪いことをする人には、せざるを得ない事情がきっとある。
おなかが空いたから、つい盗みを働いたとか。
大切なものを壊されて、ついかっとなって手を上げたとか。
もし神様がいつでも見ていて、なんでもできるのであれば、
悪いことをする前に未然に助けてくれてもよいのではないか。
おなかがすかないようにとか、あるいは、大切なものが壊れないようにとか。
最初から神様が原因を取り除いておけば、そもそもこの世に悪事はないはずだ。

天国に入れないような悪人を作ったのは、他ならぬ神様自身なのである。
悪い性質を持った人をこの世に送り出し、不遇な環境に置いたら、
当然悪事を働くに決まっている。
その悪人が死んで戻ってきたときに、悪事の理由を全て当人のせいにして、
天国に入れないのはあまりにも理不尽ではないか。

もっともこの疑問は、私が抱くよりもずっと以前から、
大人たちが真剣に議論していたようだ。
当時の私はそんな難しいことを知る由もなく、
とにかく独善的な判断でもって人を天国、地獄、と選り分けるのは
全く納得がゆかないと感じていたのである。

それでは、死後の世界はどうなっていれば納得がゆくのか。
もちろん死後の世界のことは誰にもわからないし、原理的に確かめようもない。
それでも私は、恣意的な神様がいなかったとしたら、
どういう風になるのが最も自然だろうかと考えてみたのである。
その結果、地獄に堕ちるよりもずっと恐ろしい1つの妄想にたどり着いた。
それは、裁くのは神様ではなく、自分自身なのだという妄想である。

死んでしまうと、5つの感覚は全て閉ざされる。
何も見えず、何も聞こえず、何にも触れることはできない。
しかし、どういうわけか意識だけは生きている時と同じように活動できるのではないか、
そんなことを考えてみたのである。
外界からの情報や刺激は何1つ入ってこない。
また、自分から外界に対して何1つ訴えることもできない。
ただ虚空の中に自分の意識だけがぽっかりと在って、考えることだけができる、
そんな状態がただただ永劫の時間続くのである。
その中で自分の持ち物といえば、生前に溜めた記憶と知識と思い出、それが全てとなる。

もしこの状態に置かれたとしたら、自分だったら何を考えるだろうか。
たぶん、自分の人生のイベントを1つ1つ思い出して、思い切り悔やむと思う。
 「あのとき、ああすれば良かった」
 「なぜこうしておかなかったのだろう」
 「これだけは伝えておきたかった」
そんなことが後から後から出てきて、自らを苛む。
でも、やり直しは効かない。
反省の時間だけが無限にある。
あるいは、うまく行かなかった言い訳を次々に思い浮かべるかもしれない。
 「あれは運が悪かった」とか、
 「条件が整っていなかった」とか、
 「そもそもあれは私ではなく、あいつが悪いのだ」とか。
終わることのない無念な思いが、意識の中をいつまでも堂々めぐりすることだろう。
しかし、どれほど言い訳をしても、訴えても、誰も聞いてくれる者は無い。
この世界には自分の意識しか存在していないのだから。
神様や仏様が褒めたり、慰めたりしてくれるわけでもない。
閻魔様に怒ってもらった方がまだましであろう。
そうして悔やみ抜いた果てに、
生きていた頃の時間がどれほど素晴らしく、
貴重であったかを思い知ることになるだろう。

 目に見える景色というものが、

 耳に聞こえる音色というものが、

 手に触れる感触というものが、

 全てが奇跡であったということに、

 死んで初めて気付くのである。

でも、もう遅い。
そうして、ますます悔やむことになる。
狂いたくても狂えない。
もちろん狂い死ぬこともない。
もう既に死んでいるのだから。
覚めない悪夢が延々と続くことになる。

しかし、もし清く正しく人生を全うし、
人生において一片の悔いもないと自ら断言できる人がいたとしたら、
死後の世界はどうなるか。
きっと、とても幸せな世界であろう。
自分の人生のイベントを1つ1つ思い出して、その全てに満足を見出すであろう。
こういう人にとって、死後の世界とは永遠に続く夢のようなものだ。
正に極楽であろう。

死後、裁くのは神様ではない。
自分自身である。
もちろんこんな死後の世界が本当にあるかどうか、全く想像の域を出ない。
ただ、天国と地獄を想像して神様へのポイントを稼ぐよりも、
言い訳もごまかしも効かない自分自身に正直であった方が、
ずっと納得がゆくように思えるのである。

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人は5つの感覚を閉ざされると、気がふれてしまうものらしい。
私は話に聞いた事しかないが、心理学の実験で「感覚遮断」というのがあるらしい。
窓も、飾りも何もない真っ白な部屋の中に、何もせずに、ただ閉じこもる。
目には目隠しを、耳には耳栓を、手には触覚を伝えにくい手袋をはめる。
あるいは「アイソレーション・タンク」と呼ばれる液体の入ったカプセルの中で、
ただただ浮かび続ける。

こういった特殊な環境は日常ではあまり体験できないだろうが、
私は少しだけ似たような場所に行ったことがある。
それは、コンピュータを管理する「データセンター」という名の地下室である。

私は長い時間ごろごろしていても一向に苦にならないたちなので、
たとえ数日の間刺激を遮断しても大丈夫だろうくらいに思っていた。
でも、データセンターに閉じこもってみて考えが変わった。
こりゃだめだ。
窓も、音も、臭いさえも、全てが閉鎖的な空間。
ここで作業していると、なぜか時間の流れが速いように感じられるし、どっと疲れる。
作業しているときには目的があるし、たいていは仕事仲間といっしょにいる。
これがもし、たった一人で、何もすることがなかったとしたら。
さらに、この空間に閉じこめられていて、いつ助けが来るかどうかもわからない、
あるいは、もう一生抜け出すこともできないのだとしたら。
おそらく3日と待たずに神経がまいってしまうだろう。
たぶん、核シェルターってこんな感じなのだろう。

もしこういった核シェルターのような世界に閉じこめられたなら、どうするだろうか。
最低限の空気と水と食料とトイレだけはあって、生存するだけなら全く困らない。
しかし、それ以上は何一つ無い。
生きるための努力をしなくても良いのだから、とっても楽ちんだと思うだろうか。
私が思うに、大多数の人はテレビ(あるいはインターネットや携帯電話)が無かった時点で、
非常な苦痛を訴えることになるだろう。

それではたまらないので、無限の退屈地獄を解消するために、
何か1つだけ持ち込んでよいのだとしたら、あなたなら何を持ち込むだろうか。

電子ゲーム?
すぐに飽きるだろう。
マンガ、おもちゃ?
とにかく底の浅いものではすぐに飽きてしまって、無限の時間に耐えられない。
もし本を持って行くのであれば、ブルバギとか、カント全集なんかが良いかもしれない。
チェスとか囲碁なんかもよさそうだ。
果たして必勝法はないものか、無限に探索ができる。
いっそ「尽きることのない紙と鉛筆」というのも良いかもしれない。
私だったら「モニター以外何も入っていないコンピュータ」を希望する。
そこで、まずOSを作り、コンパイラを作り、独自のコンピュータ言語を作り出し、
それを使ってゲームを作り、そのゲームを極める。
これなら無限の時間にも耐えられそうだ。

さて、このように閉鎖空間の孤独と、無限の時間と、たった1つの「退屈しのぎ」を与えれば、
その結果何が起こるだろうか。

おそらくそこには他に類を見ない、全く独特の個性的な世界が展開されるだろう。
この私でさえ、OSとコンピュータ言語くらいは作り上げていることと思う。
数学をとことん極める者、哲学をとことん極める者、
あるいはチェスや囲碁を、とことんまで極める者が出現するだろう。
こうして天才が作られる。

私が勝手に想像するに、天才とは恐ろしいほどの孤独の中から生まれてくるのだと思う。
このような閉鎖空間に放り込まれたなら、おそらく大半の人は頭がおかしくなるに違いない。
100人のうち99人までが異常をきたすかもしれない。
それとも、開き直った人間は案外強くて、半数程度は発狂せずに済むかもしれない。
さらに、たとえ本人は至って正常であると主張しても、
閉鎖空間で培ったものを、たまたま外の世界に持ち出したとき、
外の世界と適合するかどうかは、また別の問題である。
それでも、こうした閉鎖空間で正常な神経を保ち続け、
その結果、たまたま外の世界との合致に成功するケースは、
ごく希ではあるが、必ずや存在するであろう。
これが天才の世界なのだと思う。

これは単にステレオタイプなのかもしれないが、
毎日テレビにゲーム三昧、世の享楽と刺激を追い求めている生活の中から、
天才が生まれるとは考えにくい。
今日の我々の暮らしの中で、実は最も得難いのは「情報の遮断」ではないかと思う。
こうしている間にもテレビ番組は流れ、広告は隙をついて入り込み、携帯電話は鳴りやまない。
してみれば、こうした現代的生活は目端の利く小利口者を輩出はするが、
強烈な大天才は生まないように思える。

最も厳しい仏教の修行の1つに、山中で10年間全く人に会わなで暮らす苦行、というのがあるらしい。
(確か10年だったと記憶している。あるいは20年だったか、30年なのか、その数字は定かではない。)
聞いた話によると、修行を初めて2〜3年のうちは、人恋しく、狂わんばかりに人語に飢えるのだそうだ。
しかしそれを過ぎると、やがて鳥や虫の声が言葉として聞こえるようになり、
風の気配を感じ取れるようになり、最後には自然の奏でる調べと一体になるのだという。
恐ろしいまでに高い境地である。

人類最後の発見・発明

思えば人類は長い歴史の中で、実に様々なものを生み出してきた。
特に、近代科学が生まれてこのかた、ここ数百年の間、
人類の歴史は、発見、発明のオンパレードといってよい。
いったいこの勢いはどこまで続くのだろうか。
人類の未来は、どこまでも果てしなく広がっているのだろうか。

今後為されるであろう発見発明について、今から予測を立てるのは極めて難しい。
そもそも予測できるようであれば、新規の発見発明ではない。
それでも、人類が最後に行うであろう発見発明については、十分に予測が成り立つ。
なぜならば、その発見発明の後には、原理的に考えて発見発明があり得ないからだ。
それどころか、その発見発明は、おそらく人類を滅ぼすであろうと予測されるのである。

その人類最後の発見発明とは何か。それは、
 * 快楽中枢の発見
 * 快楽中枢を活性化する方法
である。

なぜこれが最後なのだろうか。
それは、快楽中枢を見出すことによって、
人類は「目的そのもの」を獲得してしまうからだ。

そもそも人類は何のために発見、発明を行うのだろうか。
さらに、人は何のために日々の営みを為すのだろうか。
端的にいってしまえば、それは「快楽を得るため」である。
快楽と言って聞こえが悪ければ、希望、望み、願望、夢、感動、とでも言い換えればよい。
あるいは、欲望、野望、と言っても本質的には同じである。
要は「心を満たすような、プラスの感情」を求めて、私たちは日々生きているのである。

例えば、発見とは何のために行うのか。
それが知的好奇心を満たすためだったとしよう。
であれば、最初から好奇心を満足させることができれば、
そもそも発見という行為は(本人にとっては)不要となる。
あるいは、世間からの評判、名声のために発見に血道を上げるのだ、という人もいるかもしれない。
では、何のために名声が必要なのか。
それは社会的な名誉欲を満たすため、つまり、人から褒められれば気持ちいいからであろう。
ここで、最後の「気持ちのいい状態」さえ手に入れば、手段である発見の過程はどうでも良いのではないか。

同様に、発明は何のために行うのか。
それが世の中をより便利に、快適にするためだったとしよう。
仮に、その発明によって、いままでよりずっとおいしい料理が食べられるようになったとする。
それでは、人はなぜおいしい料理を欲するのか。
それは食欲を満たすためである。
であれば、最初から食欲を直接満たすことができれば、(生存のための栄養さえ確保すれば)料理をおいしくする努力は全く不要ということになる。

いかなる行為に対しても、その結果得られる最終的な満足を先取りしてしまえば、もはやその行為自体は意味のない、冗長で迂遠なアプローチということになる。
何かを行った結果として満足を得るのではなく、「満足そのもの」を直接得ることができれば、他の行為は全て不要となるだろう。
ところで、人間は満足をどこで感じ取っているのか。
それは脳である。
もし脳の中から、満足を感じとる部位を探し当てることができれば、それは「人間の目的そのもの」を見つけ出したにも等しいであろう。
これが「快楽中枢の発見」である。

もし快楽中枢が見つかったならば、そこに適当な電気信号を送り込むことによって、我々はいつでも手軽に「最終目的」を達成することができるだろう。
現在の人類の常識からすれば、最終的な幸福に達することは極めて難しく、得難い体験であるとされている。
例えば、一生かけて努力に努力を重ねた末、最後にそれが報われたとか、様々な困難を乗り越えて大恋愛を貫いたとか、そういった体験である。
しかし人生の華も大恋愛も、全て脳が感じとる、ある種の電気信号なのである。
この、最後の電気信号さえ再現できれば、努力や恋愛は、まだるっこしい途中経過に過ぎない。
最終的な幸福に至るまでの途中経過はあまりにもコストが高く、大多数の人は支払うことができない。
それゆえ、本当に幸福な人生とは、必ずしも万人が入手できないだろうと推定される。
(推定と言ったのは、人生の締めくくりに臨んで人が何を感じるかについて、今の私は想像するしか無いからだ。)

ところが、もし幸福そのものを感じる電気信号を、脳に直接送ることができればどうだろうか。
これまでごく一部の人しか達したことのない境地を、誰もが手軽に味わうことができるだろう。
これほどまでに人類の幸福に貢献する発明は、他にはちょっと見あたらない。
「快楽中枢を活性化する方法」とは、究極の電子麻薬のようなものである。
現在の不完全な麻薬のように、中毒性や副作用は一切無い。
もしそのような電子麻薬があったなら、それを使わない理由はほとんど考えられない。
もし電子麻薬を禁止するのであれば、人間が幸福を追求する権利そのものを剥奪したことになるだろう。

これは私の推測なのだが、もし快楽中枢というものがあったなら、その反対の性質の、不快中枢というものもあるように思うのである。
しかも、この2つは隣り合わせになっていて、表と裏のように、すぐ近くにあるような気がする。
不快中枢とは、あらゆるマイナスの感情、恐怖、苦痛、苦悩、嫌悪、絶望、そういったものの根源を司る部位である。
快楽中枢を刺激すれば、人間はこの上ない幸せを感じるのだが、少しだけ間違えて隣にある不快中枢を刺激してしまうと、人間は救いようのない絶望の深淵に吸い込まれることになる。

もしこの快楽中枢と不快中枢を発見し、それらを刺激する方法を発明した人がいたとしたら、どうするだろうか。
おそらくその人は、この究極の発明を極秘に扱い、世界征服をもくろむに違いない。
プラスとマイナスの感情コントロールさえ握ってしまえば、他人を思いのままに操作することができるからである。
と、ここまで考えてみて、世界征服とはとてもばかばかしい、無駄な手順であることに気がついた。
なぜ世界征服をするのか。
それは、己の征服欲を満たすために他ならない。
ならば、その発明を使って直接自分の征服欲を満たしてしまえば、実際に世界征服する必要は無いはずだ。
つまり、この発明は、世界中の誰もが世界征服の達成感を味わえる、素敵な発明なのである。
それゆえ発明者は、この発明を特に秘密にする必要は無いかと思われる。

こういった「快楽中枢の発見」が本当にあり得るのか、少しまじめに考えてみよう。

真っ先に思い当たる反論は、
「人間の脳はそれほど単純なものでない。
あらゆる快楽が一点に集中しているような”快楽ニューロン”は存在しない。」
というものだろう。
私も、きっとそうだろうと思う。
人間の脳には、そこに電気を流せば幸せになれるような、単純な電極はおそらく存在しないであろう。
しかし、快楽中枢や不快中枢は、なにも脳内の一点である必要は無い。
上では話を単純化するために、脳の特定部位であるような言い方をしたが、
それが例えば「快楽パターン」であったり、あるいは「快楽の共通因子」であっても話の本筋は変わらない。
要は、
  * 人間が快楽を感じる仕組みを科学的に解明すること。
 * 電気刺激や薬品などの物理的な手段によって、快楽を直接的に生み出すこと。
この2つが実現できればよいのである。

次に思い当たるのが、
「快楽とは一定の状態ではなく、上昇するその過程にあるのだ」
とするもの。
数学のたとえを借りて言えば、快楽とは、ある生理的な特定の値そのものではなくて、その値を微分したもの、つまり右上がりの傾きであるということだ。
微分が負になったとき、つまり右下がりの傾きだと、人間は快楽の反対の感情、不快を感じることになる。
なので快楽は、いつまでも恒久的に持続させることはできない。
たいていの人生は上がったり下がったりするから、それに応じて、人は一喜一憂することになる。
禍福はあざなえる縄のごとし。

この「快楽微分説」なるものは、それなりに説得力を持つ気がする。
人はいかなる境遇にも飽きるし、また、慣れる。
幸福とは、境遇が上向きに変化する瞬間に、
不幸とは、境遇が下向きに変化した瞬間に、
生じる感情なのであろう。

そうであれば、仮に快楽中枢が発見されたとしても、人類は永遠の幸福を手にすることはできないだろう。
持続的に幸福を得るためには、与える電気刺激を常に上昇させなければならない。
一方、脳が受け容れ可能な電気刺激には物理的に上限があるものと考えられる。
麻薬というものには中毒性があり、幸福を感じ続けるためには、少しずつ使用量を増やしてゆかなければならないと聞く。
しかも麻薬が切れたときには、反対にどっぷりと不幸に漬かるらしい。
この性質は、おそらく電子麻薬であっても変わるまい。
電流を流し続けている間は良いかもしれないが、スイッチを切った瞬間、揺り戻しで思い切りブルーになるに違いない。

しかし、もし幸福が上昇にともなって得られる感情だったとしても、それが快楽中枢の刺激を否定する理由にはならないと思う。
もし人生の価値が幸福の積分、すなわち「一生を通じて受け取った幸福を全て足し合わせた量」で決まるとしたら、人生の価値はスタート地点とゴール地点の落差で決まることになる。
そして、この定義に従って人生の価値を最大にしようと試みたならば、次のような人生が最も価値が高いということになる。

幸せになる電気刺激を与え続けて、飽きたら刺激を徐々に強くしてゆく。
やがて脳が耐えきれなくなって、そこで死ぬことになったとしても、それは本望のはずだ。
なぜなら、理論的に考えて、彼はこの世における最高、最大の幸福を受け取って死んでいったからである。
これ以外の人生で与えられる幸福の総量は、電気刺激の人生を決して上前ることはない。
なぜなら、彼の脳は、もともと電気刺激で与える以上の幸福を受け取ることができないからだ。
だったら、幸せになれるかどうかも分からない不安な人生を送るより、確実に、自分に与えられた最大幸福を受け取った方がずっとよい。

遠い未来には(あるいは思ったよりも近い未来には)、快楽中枢という、人間の根源に迫る謎が科学的に解明されることだろう。
そのとき、人類はどうなるだろうか。
おそらく人類の大半が、その恩恵にあずかることになるだろう。
発見された当初は、人々は懐疑的になるかもしれない。
人間の尊厳や、倫理に反するとか、どうも肌になじまないとか、そういった理由で、快楽中枢の操作に反対する意見が湧き起こることになるだろう。
しかし、その反対意見が湧き起こるのは、長くて2〜3世代の間なのではないか。
因習にとらわれない若者たちは、快楽中枢の刺激を喜んで受け容れるだろう。
他人に迷惑をかけるわけでもないし、どちらかと言えば地球環境にもやさしい。
そして、一度受け容れてしまえば、得られるものはあまりにも大きい。
なにせ「夢」が、その場で手に入るのだ。
今日の世界では、志半ばに倒れる人生があまりにも多すぎる(と思われる)。
快楽中枢の刺激は、そうした人々を救う、最後の発明なのだ。


  人生に何の意味があるか。


その意味を「科学的に」とことんまでつきつめると、快楽中枢にたどり着く。


あるいは、こうも言えるかもしれない。
仮に「人生に何の意味があるか」という問いに、誰もが納得する、確実な答が見つかったのだとしよう。
その答が見つかった瞬間に、あらゆる人間の営みは停止することになる。
なぜならば、人類は「答そのもの」、「意味そのもの」を見つけてしまったのであり、それ以上の探求や試みには「何の意味もない」からである。
であれば、いまのところ人生に意味が見つからないのは、極めて幸いなるかなと言わねばなるまい。

さて、人類の大半が快楽中枢の刺激を受け容れるようになった、その先には何があるのだろうか。
おそらく、


  人類の大絶滅


が来るものと思われる。
人間は、もうこれ以上何もしない。
何もする必要がないのだ。
生きている必要さえ無いのである。
たとえ生きていたとしても、今、与えられている電気刺激以上のものには、決して巡り会えないのだから。
最初から答が与えられている問題のようなものだ。
最高の快楽に触れた後は、生きていようがいまいが、どうでも良いのである。
あるいは、人類は絶滅しないまでも、電子麻薬の夢にどっぷりと浸かって、あえてそこから出る愚行を犯さないであろう。
(夢から覚める瞬間に、巨大な絶望に襲われることを思い起こして欲しい。)
こうして人類は、静かに、そして幸せに収束を迎えるのである。

こうして人類のストーリーは幕を閉じるのだが、大絶滅(あるいは大ひきこもり?)以後の世界はどうなるのか、さらに想像を広げてみよう。

大絶滅の後であっても、電子麻薬の夢に入れなかった、ごく一部の人間が生き残るであろう。
その人たちは、文明の主流から取り残されたのかもしれない。
あるいは、とても頑固であまのじゃくで、何の理由もなく、かたくなに電子の夢を拒んだ人たちなのかもしれない。
どのくらいあまのじゃくかというと、今風に言えば、宝くじで大金があたっても、何の理由もなく受け取り拒否するようなものである。
そういう「とり残された人々」が、決して数は多くないだろうが、必ずや存在するだろう。

科学が生んだ究極のユートピアを、あえて拒んだわずかの人間たち。
その先には絶望しか無い。

もし夢や希望を糧に生きるのであれば、電子の夢に加わるのが最も合理的な判断だからである。

だとすれば、残された人々が生きてゆくのは、快楽や夢や希望を行動の原動力としない、真に絶望に耐えうる人間だけが暮らしてゆける世界であろうと想像される。

それまでの間(もちろん現在もそうなのだが)、人類は、いわば快楽というご褒美によって営みを続けてきた。
快楽中枢が発見されることによって、いままで用いてきた「ご褒美」は、全て無効となるのである。

快楽と言えば聞こえが悪いが、もう一度繰り返せば、これは「夢も、希望もない」ことと同義である。
大絶滅以後の世界では、「夢や希望があって、そこに向かって前進する」といった、今日の常識は、もはや全く通用しない。

そこに住む人達は、いったい何を原動力として生きてゆくのだろうか。

夢や希望を原動力として生きている私には、全く想像がつかない。
それでも、人間(あるいは人間からさらに進化した何物か)は、夢や希望や絶望をも超越した世界で、きっと生き続けてゆくのだろうと想像されるのである。


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付け足しとなるが、今日普及しつつある、コンピュータの作り出す仮想世界は、上に書いたような「電子麻薬の夢」の黎明期にあたるのではないかと思えてくる。
そして「恋愛シミュレーションゲーム」のような仮想体験に快楽を感じ、現実世界の対人関係をうまく築けない人たちは、来るべき「人類の大絶滅」を一足早く先取りしているものと考えられる。

そうなると、今の段階から少しずつ淘汰が進んでいって、ある特定の時期に目立った大絶滅は起こらず、緩やかに、自然に「健康な人類」に移行するのかもしれない。