恐い夢

夢って、楽しいものが多いのでしょうか、恐いものが多いのでしょうか?
もちろん人によるかと思うのですが、私は圧倒的に恐い夢の方が多いです。
これまで楽しい夢を見たという覚えがほとんどありません。
大体、何かに追われている夢というのが多いですね。
今回は、私が過去に見た恐い夢ベスト3を書いておきます。
最初に言っておきますが、あまり気持ちの良いものではありません。むしろ、グロいです。
気持ち悪いものを想像するのが嫌だという人は、この先、特にNo.1の夢は、読まない方が良いと思います。

* 悪夢No.3.「人間玉」
地球上に人間が、ものすごくたくさん増えてしまった、という夢です。
ものすごく人口が増えてしまったので、食料が足りなくなります。
どうするか。
実は、その時代の地球ではテクノロジーがとても発達していて、
あらゆる物質を望みのままに変換することが可能となっています。(こういう所だけ、妙に科学的)
そこで、人間は地上にあるものを片っ端から食料に変えてゆきます。
どんどん食べて、それが全部、人間に変わってゆく。
そうして地上のものを全て食べ尽くしてしまった人間は、今度は「地球」そのものに目を向けます。
つまり、大地を食べ物に変換して、食べ始めるのです。
どんどん地面を食べていって、それが全て、人間に変わってゆく・・・
気がついてみると、かつて地球だったものは、全部、人間に置き換わっていました。
宇宙に浮かぶ、肌色のボール、それが「人間玉」です。
人間玉の中身は、人間でびっしり、人間だらけ。
特に真ん中の方は、ラッシュアワーの電車みたいに、ぎゅうぎゅうのすし詰め状態。
しかし、そんな中であっても、新しい人間は次々に誕生します。
人間玉のどこかで「ほぎゃ〜、ほぎゃ〜」といった産声と共に、新しい命が生まれます。
すると、みんなラッシュアワー状態で気が立っているので、むちゃくちゃ怒り出すのです。
「バッキャロー、これ以上、生むんじゃねえっ!」
でも、新しい人間は、構わず生まれてくる。
そして、人間玉はますますぎゅうぎゅう詰めになってゆく・・・
ここで目が覚めた。
・・・改めて言葉に直してみると、どことなくコミカルだなぁ。
夢の恐さが上手く伝えられません。
人間玉のすし詰め状態の中にいると、どこにも行き場のない恐怖に圧迫されて、窒息したような気になるんですよ。
ひょっとして、創り入ってるんじゃないかって?
私以外に証明はできませんけど、創るんだったら、もう少しマシなものを創ります。

* 悪夢No.2.「増える髑髏」
冬の枯野のような、何もない、寂しい野原を、私は一人さまよっています。
空はどんよりとした曇り空、見渡す限り、枯れ草しかない。
私以外に、生き物の影は、何1つ見当たらない。
原野の中に、ちょっとした窪地があって、覗いてみると、そこには一体の白骨が埋もれていました。
真っ白な骨です。
「何だろう」と思って、私は近くにあった木の枝で、髑髏をツンツンとつついてみました。
すると突然、髑髏がパカッと2つに分裂して、2個に増えます。細胞分裂のように。
しばらくすると、この2個の髑髏が、またパカッと2つに分裂して、4個に増殖します。
4個が8個、8個が16個・・・と、次々に増殖していって、瞬く間に窪地は髑髏で埋め尽くされます。
やがて、髑髏は窪地をあふれ出して、どんどん原野に広がって行きます。
私は一目散に逃げ出します。
振り返ってみると、いままで黒かった原野が、髑髏で埋め尽くされて、真っ白になっているではありませんか。
大地がびっしりと髑髏で覆い尽くされて、もう何処にも逃げ場が無い。
私を含む、行き場をなくした人々は(いつの間にか人々に変わっている)、
「もう地上には居場所が無い、宇宙に逃げよう」
と言って、巨大なロケットを作って、みんなで宇宙に逃げ出します。
宇宙から見ると、地球は真っ白な「髑髏玉」になっています。(このパターン、多いですね)
ところが、これで終わりではありませんでした。
地上を覆い尽くした髑髏は、今度は空中に出てきます。
髑髏は宙に浮いて、一定間隔を置いて格子状に、空間を埋め尽くして行きます。
で、ロケットは全力で逃げる。
でも、髑髏は際限なく増殖して、宇宙空間を埋め尽くしてゆく。
地球を中心に、宇宙空間は黒から白へと変わってゆく。
ロケットは逃げる、逃げる、宇宙の果てまで逃げて行く・・・
ここで目が覚めた。
たとえ相手がどんな化け物であっても、一匹だけだったら、何とか逃げおおせると思いませんか?
でも、髑髏は違う、埋め尽くされるのです。
逃げ場がどんどん失われて行く、それが恐い。
言葉に直すと、やっぱり迫力に欠けるのですが、少しは恐さが伝わったでしょうか。

* 悪夢No.1.「人間の河」
この夢は私にとって、特別な意味があります。
というのは、私の普段の夢はほとんどモノクロなのですけど、この夢だけは鮮明なカラーだったからです。
でも、出てくる色は、赤と黒と灰色だけ。
その赤が、他の夢では無いほどに、鮮明に、強烈に浮かび上がる、そんな夢です。
私はどこかの街にいます。
空は分厚い雲に覆われた鉛色、街の建物は黒一色です。
突然、鉛色の空から、真っ黒な物体がバラバラバラ・・・と降ってきます。
しばらく間隔を置いて、また、バラバラバラ・・・と降ってくる。
爆弾です。
飛行機の姿は見えません、雨のように、何の前触れもなく、無から降って湧いてくるのです。
爆弾は黒い街の上に降り注ぎ、ドォーン、ドォーン、と空洞にこだまするように、不気味な音が響き渡ります。
やがて、黒い街が炎上します。
影絵のように、黒い建物の背景が、赤く、赤く染まってゆく。
黒い建物は歪み、上から少しずつ、ボロボロと崩れ落ちてゆきます。
ここで視点が切り替わって、私は街から少し離れた小高い丘の上に立っています。
遠くに赤く炎上した街がある。
その街から、溶岩のように溶け出した、熱い、真っ赤な河がドロドロと流れ出してきます。
溶岩の流れはドロドロと大地を流れ落ちて、私の立っている丘のすぐ麓をよぎってゆく。
その流れをよく見ると・・・それは「溶けかかった人間の河」だったのです!
たくさんの人間が、焼けただれて、血と、内蔵と、骨と、髪の毛が混ざり合ってぐちゃぐちゃになったものが、
河となって、焼けた街から流れ出してくる。
溶けた人間の河の中には、溶けかかった顔が幾つも、幾つも、浮き沈みしています。
その顔には、どれも、これも、恨みを込めた表情が刻み込まれている。
痛み、苦しみ、悲しみ、怒り、、、半分顔が無かったり、骨が突き出していたり、黒髪が無造作に巻き付いていたりする。
そういった無数の苦悶の表情が、血と内臓がごたまぜになった中を、浮き沈みしながら流れ去ってゆく。
ふと地平に目を向けると、燃えている街は1つだけではありませんでした。
あっちでも、こっちでも、目に入る限りの街という街が、燃えている。
そして、そのすべての街から、溶けかかった人間の赤い河が流れ出しているのです。
たくさんの赤い河が、怨嗟の悲鳴を上げながら、黒い大地を横切り、漆黒の闇へと消えて行く。
もし地獄というものがあるのなら、きっとこんな眺めだろうと思います。
目が覚めて直後に感じたのは、「ああ、生きててよかった。」
なぜ、こんな夢を見たのか? このイメージは何処から湧いてきたのか? 私にもわかりません。
私は戦後生まれですし、空襲に遭ったことは一度もありません。
できればもっと楽しい夢が見たいです。

実は、上のNo.1〜3の悪夢は、集中的に同じ時期に見たものです。
しかもすごく昔、小学校の終わりから中学くらいにかけて。
この時期に、私は本当に恐い夢を、立て続けに見ました。眠るのが嫌になるくらい。
では、その時期は情緒不安定だったのかと言えば、そんなことはない。
うまく言えないのですが、むしろ精神活動が高まっていたように思います。
それまで意識が回らなかったようなことにも、気付くようになったというか、そんな感じです。
そんなに高まったのなら、知能が上がったのかといえば、そうでもない。むしろ、学校の成績は下がった。
最近は夢を見る回数も、恐い夢の頻度も、だいぶ減りました。

このブログを始めてから気付いたのですが、どうやら「恐い夢を見る」精神状態でないと、書けない文章というものがあるみたいです。
これなんかがそうです。
* 幸福量保存の法則 >> [id:rikunora:20080618]
* 死後の世界、あるいは天才の作り方 >> [id:rikunora:20080415]
内容の善し悪しはともかく、こういった文章は不安定な状態でないと出てきません。
反対に、精神が安定しているときは、軽い、底の浅い文章しか出てこない。
もちろん安定していた方が、睡眠には良いのですが。
文章(あるいはアイデア)という点で、自分の中でベストが出るのは、不安定な状態から回復した直後の“病み上がり”のときです。
これがそう。
* お金の要らない世の中、働かなくても良い世の中、勉強しなくて良い世の中 >> [id:rikunora:20080420]
残念ながら精神状態は、夢をコントロールできないのと同様、自分でコントロールすることができません。
なので、意図的にベストの状態を作り出すことができない。
別に、私が文章作成の天才だと言っているわけではありません。
誰もが夢を見るのですから、誰もが「自分はこんなものを持っていたのか」と驚くようなイメージを、心のどこかに持っているのだと思います。
でも、そのイメージを形にできるかどうかは、また別の話。
夢を言葉にするのがひどく難しいように、イメージを的確に表現するには、相応の技術が必要です。
でも、もし元になる夢が無かったら、どんなに技術を持っていても、何の役にも立たない。
どういうわけか、私は天から「恐い夢」を与えられたみたいです。
もうちょっと良いものをくれよと言いたいが、まあ、仕方ない。
安眠できる程度に、適当に付き合ってゆくしかありません。

脳は脳を理解できない

より正確には「脳は、自分の脳自身を100%完全に理解できない」です。
もし脳が100%完全に脳自身を理解できたとしたら、
脳の中に、脳の持つ情報の全てがすっぽりと含まれることになります。
そして、その脳の中にある脳の情報は、また脳自身の情報をそっくりそのまま含んでいるはずです。
そして、その脳の中にある脳の中にある脳は、また脳自身の情報を・・・
というわけで、脳の中にある脳の連鎖が無限に続くことになります。
ちょうど合わせ鏡のように。

集合Sは、もしそれ自身の真部分集合に相似ならば、「無限」であるといい、
そうでない場合にはSを「有限」集合であるという。
     -- 数について(デーデキント)より
     -- なぜ1+1=2になるのか [id:rikunora:20080918]

有限の人知で無限を理解することは不可能なので、脳は脳自身を100%理解することはできません。

視覚を例にとってみましょう。
人間の目の構造の説明として、こんな絵を見たことがあるかと思います。
  >> wikipedia:網膜
眼球の後ろに網膜があって、いま見ている風景が網膜に写し出される。
そこまでは良いのですが、それでは、この網膜に写し出された風景を、一体「誰が」見ているのでしょうか。
もし脳が網膜を見ているのだとすると、脳の中には映画館のようなものがある、ということになるでしょう。
その映画館には観客が居るはずです。
観客は脳の中に住んでいる小人のようなもので、その小人が上映されている映画を見ているのかな?
だとすれば、その小人の持っている目はどのようになっているのでしょうか?
きっと小人の目にも網膜のようなものがあって、そこに写し出されている・・・

あるいは、こんなことを考えてみてください。
脳手術の要領で頭蓋骨を開けて、自分で、自分の脳を直接のぞいてみたとしましょう。
今、見ている脳の中には、自分が見ている情報の全てが入っているはずです。
網膜というスクリーンを、自分の目で直接見てみたら?
あるいは脳内に流れる視覚情報を、医療機器の力を借りて映像化して、自分の目で見たとしたら?
無限ループに陥るでしょう。
実際に合わせ鏡をやってみると、遠くの鏡はだんだん小さくなってゆくし、だんだん暗くなってゆく。
なので、実際の合わせ鏡の映像であれば、1つの絵として何とか受け容れることができる。
しかし、脳内に流れる視覚情報を余すところ無く「見る」のは、それとは違います。
途中に減衰するものが全く無ければ、手加減なしの無限が容赦なく襲ってきます。
なので、人間は自分の視覚自体を100%完全に「見る」ことはできない。
それと同じ理屈で、脳は脳自身を完全に理解することはできないはずです。

だからといって、脳は脳のことを全く理解できないわけではありません。
仮に、脳が脳のことを半分まで理解できたとしましょう。
すると、脳の中の脳には、1/2 x 1/2 = 1/4 の情報が含まれることになります。
脳の中の脳の中の脳には、1/2 x 1/2 x 1/2 = 1/8 の情報が含まれることになります。
これをどこまでも繰り返して、全部の脳の情報を足し合わせると
1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 ・・・ = 1
合わせて1になるのだから、脳は脳自身を半分までは理解可能だということです。
理解が半分を越えると総和が1を越えるので、1人の脳に収まり切らなくなります。
たとえ脳の全てを1人で理解できなくても、複数の専門家が分担して理解することは可能かもしれません。
例えば、いま目の前にあるパソコンについて、半導体プロセスからソフトウェアの使いこなしまで、
1人で全てを理解している人はまれでしょう。
それでも各部分について詳しい専門家がいれば、社会を営む人間全体としては困らないわけです。
パソコンと同じように複数の専門家でカバーすれば、脳についてだって完全理解に近づけるでしょう。
仮に、脳が脳の99%までを理解できるのだとすれば、
(99/100) + (99/100)^2 + (99/100)^3 + ・・・ = 100
つまり100人の専門家がいれば、1人の人間の脳の99%までは理解可能ということです。

専門家の数を増やしてゆけば、脳理解のカバー率はどんどん上がってゆきます。
99% が 99.9% になり、99.99% になり、99.9999・・・% になり、、、
しかし、どこまで専門家を増やしていっても、決してカバー率 100% の完全理解には到達できません。
100%未満であれば有限、100%は無限になるからです。
人類の持てる知識としては 99.9999% あたりで充分満足すべきでしょう。

でも、人類が古来から本当に知りたかったことは、
決して知り得ない残りの 0.00001% に含まれているという気がします。
人が古来から本当に知りたかったこと、それは
  「私は一体誰か?」
という問い掛けです。
人の精神の不思議なところは、有限の存在でありながら、その内に無限を有しているということ。
無限であるが故に、永久に知り得ない。
自我とは、
  「私が自分である」
という強い思い込みのことです。
あるいは、自分の存在根拠は
  「我思う、故に我あり」
です。
上の2つの言葉、どちらも自己言及であり、無限ループを内包していませんか。
自分自身による自分へのフィードバックは、ある一定値を超えたときに、発散して理解の限界を超えることになります。
それが一人の人間の中で完結していたのなら、1ループで自身の半分以上をフィードバックすれば、
ループの総量は自身の理解の限界を超えることになります。
何を持って「半分以上」とするのか。
つまるところそれは情報量の大きさで測られるべきなのでしょうが、
まだ誰も脳内に流れる情報量を正確に計測できていません。
それでも、人が自分自身で理解することのできない自我を有していることからすると、
「私が自分である」という思い込みはとっくに限界点を超えているように感じられるのです。

ここまで大風呂敷を広げたので、あと2つばかり話題を付け足します。
1つ目。
自分で自分自身が理解できないのと同様、人が相互に他人を100%理解することはできない。

自分が相手を理解し、相手が自分を理解できたなら、全体として無限ループを形成するからです。
この図って、無限大の記号∞みたいですね。

2つ目。
自分の中をグルグル回っている無限ループは、創造性に深く関わっているように思える。
いわゆるクリエイティブなものは、自分で自分をどこまでも見つめ直すループの中から生まれるような気がします。
自己言及ループ無しに、外界から取り入れた情報をそのまま出力したら、それは単なるコピーでしょう。

なので、この図のように、いつでも何かがグルグル回っている状態というのが大事なのではないかと思うのです。

人間だけが悩むのか

Q1.動物や昆虫は悩まないのか?
A1.犬は悩む。たぶんコオロギも悩む。
  ・コオロギのひきこもり
  ・その後のパブロフの犬

Q2.学習と悩みに相関はあるか?
A2.ある。
  ・インドの農村と都会

Q3.なぜ人間はこれほどまでに悩むのか?
A3.人間は未完成だから。


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1.動物や昆虫は悩まないのか?


> 昆虫は悩まない。(昆虫になったことがないのでわからないが、たぶん。)
先日のエントリー[id:rikunora:20080812]にこう書いたのだが、果たして本当だろうか。
よくよく思い返すと、昆虫にも悩みがあることを示す逸話があったように思う。
私が覚えているのは「コオロギのひきこもり」という話だ。
確か「心理学パッケージ」という本に載っていたと思うのだが、本もどこかに紛失してしまったし、詳細もうろ覚えだ。
コオロギのオスは、メスをめぐってけんかする。
けんかに負けた方は、いわゆる負け犬状態になって、巣穴に「ひきこもって」しまう。
そして、なかなか次のけんかには出向かないのだそうだ。
ひきこもる理由として、けんかに負けたコオロギは体力を消耗しているし、ケガを負って不利な状況にある可能性も高い。
なので、不利な状況下でいたずらに次回に挑戦するよりも、回復を待った方がよいのだろうといった解説が為されていた(確か)。
私はこの記事を見て、コオロギも人間と同じなのだと感じた。
全く他人(他虫?)ごととは思えない。
コオロギだって悩むのだ。
一寸の虫にも五分の魂なのである。

同じ本の中で、もう1つ覚えている逸話がある。
それは「その後のパブロフの犬」という話である。
パブロフの犬とは、条件反射を世界的に知らしめた有名な実験だ。
この実験が行われてからというもの、世界中のあちこちで条件を変えて、似たような実験が行われた。
そういう実験に使われた犬が、その後どうなったか、というお話である。
いわゆるパブロフの犬の実験によって、犬は音によって条件付けられることがわかったので、
その次には「犬は図形を見分けられるか」ということがテーマに上がった。
犬に、丸の書いてある札と、三角の書いてある札を見せて、丸の札を見せたときにだけエサを与える。
これを繰り返すうちに、犬は丸の札を見せるだけでよだれをたらすようになった。
つまり、犬は丸と三角によって条件付けられるのである。
それでは、真円と楕円であったら、見分けが付くのだろうか。
同様の実験を、真円と楕円によって繰り返してみる。
すると、犬はやはり真円と楕円を見分けていることがわかる。
実験はさらに続く。
いったい犬は、どれほど微妙な図形の違いまで認識できるのだろうか。
縦横比が2:3の楕円と、4:5の楕円だったらどうか。
9:10の微妙な楕円を見分けられるのか。
ところが、この辺になって犬に少しずつ変化が見られるようになってきた。
図形を見分ける「成績」が、急速に下がっていったのである。
というより、実験そのものがすっかり嫌になってしまったのだ。
食欲はすっかり減退し、札を見せるとキャンキャンとおびえるばかりで、すっかり元気を無くしてしまったのだそうだ。
これも全く他人(他犬?)ごととは思えない、現代の詰め込み教育を彷彿とさせる話だ。

犬は悩む。というか、ノイローゼに近い状態に陥ることがある。
犬を飼ったことがある人なら、よく解っていることだと思う。
昔、近所で飼っていた犬の主人が、長期旅行で出かけていたことがある。
するとそれから毎晩、主人が帰ってくるまで、犬は悲しげに「キューン、キューン」と鳴き続けた。
ハチ公だって、名犬ラッシーだって、あれほどまでに忠友の情に溢れているのだ。
犬が悩まぬはずがない。

悩みは人間だけが持つ特権ではなかったのだ。
犬も、こおろぎも、悩む。
人に近い猿や、大型哺乳動物は、ほぼ間違いなく悩むだろうと思う。
それでは、ミミズやゾウリムシは悩むのか。
例えばゾウリムシに薬品をかけて、膜に異常な電位差が生じたとしたら、それは一人前(一匹前)に悩んでいる証なのだろうか。
悩みを持つとは、即ち心を持つのと同じである。
ゾウリムシも生きているのであれば、ほんの少しくらいは悩みの片鱗を持ち合わせていたとしても不思議はないだろう。


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2.学習と悩みに相関はあるか?


それでは、人間だけが持つ高尚な悩みというものが、あるのだろうか。
人間の人間たる最大の特徴は、発達した大脳皮質と、それを用いたシミュレーション能力にある。
人の悩みはその大半が、シミュレーション結果が悪く転ぶかもしれないと予測するところから生じる。
端的に言って、絶望の無いところに希望は無い。その逆も然り。
なまじ這い上がれるチャンスがあるから悩むわけで、初めから上がる(又は落ちない)という考え自体が無ければ、悩みも無い。

かなり以前の話になるが、私は貧乏旅行でインドに行ったことがある。
インドの農村に行ってまず感じたのは、みごとなまでにモノが無い、ということだった。
旅行者としてやってきた私の方が、1つの家にある全てモノよりもたくさん持っているのではないか、
そこまで思わせるほどだった。
ならば、そこに住む人はみな暗い顔をしているのかというと、そんなことはない。
なぜなら、村中がみな同じようにモノが無かったからだ。
モノに囲まれた日本人の方が、よっぽど辛気くさい表情をしている、そう思った。

ところが同じインドであっても、都会に隣接するスラムでは事情が違う。
モノが無いのはスラムも農村も同じだが、スラムに住む人の表情は暗い。
なぜなら、すぐ隣に金持ちがいるからである。
インドの都市は、たいてい身分や宗教に応じて住む区画が異なっている。
金持ちは金持ちの区画、貧乏は貧乏の区画。
この2つの区画は、決して交わることがない。
道路一本を隔てて、右側が金持ち、左側が貧乏、といった場所がある。
こういう場所に居ると、貧乏はみじめである。
「貧乏は都市にある」そう感じた。

インドには、日本と同じような「チャンスをつかむ道」「這い上がれるパス」が無い。
あるのかもしれないが、極端に狭い。
職業の基本は世襲で、餅屋は餅屋、靴屋靴屋、農家は農家のままである。
日本の価値観からすれば、これはひどく閉塞的な仕組みに思える。
当のインド人はどう思っているのだろうか。
インド人に直接聞いた訳ではないのだが、私の印象では、どうも日本人が思っているほど窮屈ではないように見えた。
将来に思い悩む、という点に関しては、日本人の方がよほど上なのではないか。
そこで気付いた。
「チャンスをつかむ道」があるということは、それと同じだけ「チャンスを逃す不安」もあるのだということに。
インドでは「這い上がれるパス」が無い代わりに、「さらに転落するパス」も無いのである。
そして、両方のパスが無ければ、もはやこれについて悩む必要も無い。
不安とは、そういった性質のものだったのだ。

1つ大事なことを付け加えておくと、上のお話はもうずいぶん以前のことで、今のインドには(たぶん)あてはまらない。
近年のインドには「チャンスをつかむ道」が開けつつある。
反対に、近年の日本では、本当に「チャンスをつかむ道」「這い上がれるパス」があるのか、疑わしくなってきた。

悩みの話に戻ろう。
とどのつまり人の持つ悩みの大半は「シミュレーション能力」から生じるのである。
 ・もしこんなふうになったら、どうしよう。(不安)
 ・あのときの自分がこうしなかったら、どうなっていたか。(後悔)
 ・もし自分がこの立場だったら、どうなるか。(嫉妬、ねたみ)

食べ物を奪い合う悩み、メスを奪い合う悩みは、ミジンコでも持ち合わせているかもしれない。
しかし、将来について、自分について思い悩むのは、学習によって未来を変えられる動物特有のものではないかと思う。
悩みとは、学習能力の代償なのだ。


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3.なぜ人間はこれほどまでに悩むのか?


人の悩みには、学習、あるいはシミュレーション能力が大きく寄与している。
ただ、それだけではない。
人の悩みには、ただ生存に有利な能力の代償、という以上の意味がある。

もし世の中が自分をも含めて、美人、あるいはイケメンばかりだったらどうだろう。
きっと悩みは半減するだろう。
しかし実際に生まれくる人間には、生まれながらに出来の良いものと悪いものがある。
なぜ世の中にはブス、ブオトコがいるのだろうか。
ピカピカの工業製品は、同じラインから生み出されるもの全てが整った、画一的なデザインで世に送り出される。
人間は工業製品のようには生み出されてこない。
なぜ人間は工業製品のように画一的に生み出されないのか。
生物に出来、不出来があることを、なんとなく自明のことだと思っていないか。
生物の仕組みが、現時点で人が作った工場よりも劣っているとはとても思えない。
生物が「本当にその気」になれば、画一的に出来の良いものだけを生産することは、さほど難しくないはずだ。
あるいは、たとえデザインに出来、不出来があったとしても、それらを全てカッコイイ、美しいと感じるように、感覚器官を仕組んでおくことは可能なはずだ。

生まれつきばかりではない。
心が、体が、知能が発達する過程で、チャンスをつかんでどんどん伸びてゆく個体と、学習し損ねてたいして伸びない個体がある。
しかしなぜ、人間はこのように非効率的な発達システムを採用したのだろうか。
明らかに生存に有利な特性は、学習以前にあらかじめプリセットしておけばよいのではないか。
(これは先日書いたお話「学ぶこととは出会うこと[id:rikunora:20080812]」)

生誕の出来不出来、発達過程のばらつき。
これらはむしろ、生物が積極的に取り入れた仕組みなのだろう。
つまり、悩みを生み出す仕組みは、最初から人間の中に組み込まれていたのである。
なので「悩みをなくそう」とか、「悩みのないユートピアのような社会システムを作ろう」などという考えは、端から人間の在り方に反しているのだ。

なぜ生物が出来不出来、ばらつきを積極的に取り入れるのか。
それは未来を探索しているからである。
出来不出来、ばらつきが生じる形質は、いまだに最適解が見出せていない、発展途上の段階にあるということだ。
あらゆる生物の中で、特に人間だけが悩み多いのは、人間こそが発展途上の段階にある、あらゆる生物のフロンティアだからだ。
もし人間が「完成したら」、悩みは消える。
同時に、もうそれ以上発展する可能性も失われる。

さて、生物としての人間が最適解を目指して探索を続ければ、その過程で多くの「無駄」や「はずれ」が生じる。
むしろ「はずれ」の方が多いはずだ。
そこで「はずれ」となった、大多数の人間はどうしたら己の存在に納得できるのか。
「はずれ」は無意味だから、速やかに死んだ方が人という種全体にとっては良いのだろうか。
だから「本当のはずれ」は、死をたいして苦にしないのだろうか。
これは生物の問題ではなく、人としてどうあるか、という問題である。
「はずれ」が判明した時点で、さっさと死んでしまえ、というのも1つの極端な答だろうし、
いかなる状況においても生は尊く、死は罪悪、というのも1つの答だろう。
両者の間に、絶対に正しい答は出ていない。
つまりここにも最適解は無いわけで、また悩みが1つ増えてしまった。

学ぶこととは出会うこと

痛み概念の取得[id:rikunora:20080810]、気持ち悪い概念の取得[id:rikunora:20080811]に書いてきたことについて考え直した。

人は痛みに出会って、初めて「痛いこと」を学ぶ。
これは間違いないように思える。
それでは、もし痛みを全く体験しなかった人がいたとしたら、その人は「痛いこと」が全くわからないのだろうか。
あるいは、初めて痛みに出会ったとき、それがたまたま嫌悪以外の感情に結びつくことがあり得るのだろうか。
同じことは「気持ち悪い」についても言える。
どんな出会い方をしても、うにょうにょを見て「ああ、気分すっきり」という人はごく希なのではないか。
つまり、苦痛も気持ち悪いも、「答はあらかじめ自らの内に用意されていた」ように思える。
最初の出会いは、その答を発現するためのきっかけだったのである。

このことが端的に解りやすいのは、「最初に異性に出会ったとき」の感情ではないか。
これについて、密かに覚えている人は少なくないかと思う。
こっ恥ずかしい内容なので、詳細はパス。
後から考えるに、よほど異常なシチュエーションでもない限り、大半の人が「正しい答」に達する。
もしまともな出会いが無かったら、極端な話、異性が全くいない世界で暮らしたらどうなるか。
たとえそんな世界に生まれたとしても、もやもやした渇望のような感情だけは残ると思う。
見たこともない異性の像を、なぜか絵に描くことができたり、詩にしたり、きっと何らかの形で発現するだろうと思うのだ。

こうなると不思議なのは、なぜ心の発達は「出会い+発現」という形をとるのか、ということだ。
最初から本能にインプットされている知識なら、わざわざ無知の状態を経る必要はない。
生まれた時点で既に知っていてもよいではないか。
昆虫は生まれた時点で、誰からも教わることなく自らの為すべきことを知っている。
わざわざ学ぶ必要がないので、それだけ無駄な時間と危険性が少ない。
それに比べると、きっかけと出会って発現を繰り返す発達過程は、ひどく不安定で無駄なやり方に思える。

その一方で、出会いと発現には、常に感動が伴う。
ウジ虫との出会いには感動が少ないかもしれないが(これはこれで立派な感動なのだけれど)、
初恋であるとか、才能の開花であるとか、どれも心揺さぶられるように思わないか。
きっと、出会いと発現には、学び損ねる危険を冒してまでする、何か重大な価値があるのだ。
それは人の心の鍵を握る、とても重要な何かであろう。

仮に昆虫のように、生まれながらにして主要な知識を完全にインプットする学習体系が出来上がったら、どうなるか。
一見すると、社会はものすごく効率的になる。
まず学校が不要となる。
20数年間を待たずして、人間は肉体が満足に使えるようになった時点で、そのまま実社会に投入可能だ。
たぶん、現在の小学校に上がるくらいの年齢で立派な社会人になれるだろう。
それよりも大きいのは、おそらく悩みというものがほとんど無くなる。
昆虫は悩まない。(昆虫になったことがないのでわからないが、たぶん。)
能力が最初からインプットされているのであれば、何ができて、何ができないかがはっきりしている。
なので、能力に由来する類の悩み 〜 自分にこれができるだろうか、できないだろうか、と迷うことが、ほとんど無くなる。
昆虫によっては、次に子孫が残せるか、残せないかの役割ですら、生まれながらに決まっているのだ。
そして、そんなことで昆虫は悩んだりしない。
さらに、皆が自分の為すべきことをあらかじめ知っているので、社会の運営が秩序正しく、整然と行われるようになるだろう。
アリのように、ハチのように。
こうしてみると、昆虫型は良いことずくめだ。
社会を営む、という点に関しては、人間はアリやハチに劣る失敗作なのだ。

繰り返すと、「出会い+発現タイプ」の学習方法は、次の3点において「あらかじめインプットタイプ」に劣る。
・長い学習期間を要する
・学び損なうことの危険性
・社会の非効率化と混乱
これだけのペナルティを背負ってもなお、人間に至る哺乳動物の進化において、学習期間はどんどん長くなる傾向にある。
それでは問題の核心となる、発現タイプ学習の重大な価値とは一体何だろうか。
それは「可能性」の3文字に集約される。
後から出会いによって感情が意味付けられるのであれば、出会い方によって、意味に大きな幅を持たせることができる。
同じ「痛みに対する嫌悪」であっても、出会い方によって、感じ取る嫌悪の内容、強さ、意味付けは異なってくる。
学習過程が異なれば、「嫌悪」という言葉で指し示される心の中身が同一になることは、ほとんど無い。
心に幅を持たせること、これが唯一本質的に、発現タイプ学習のもたらすメリットだ。
逆に言えば、幅を持たせることができるという以外に、発現タイプ学習のメリットはほとんど見出せないように思う。

もし「痛み=>嫌悪」の数ある結合の中で、生存に最も有利な最適解があったなら、その部分は学習ではなく固定化した方が生物として有利なはずだ。
それが固定化されてないということは、少なくとも現時点では「痛み=>嫌悪」に最適解は見出されていないということだろう。
いまだ発現タイプ学習を続ける人間は、混乱する社会と悩みを背負って、未来の可能性に賭けているのだ。

独裁者のような権力を駆使して、あるいはIT技術の粋をつくして、「効率的な学習」と「効率的な社会」を作り出すことは、現在であってもそれなりに可能だろう。
すると、アリのような、ハチのような完全社会が出来上がる。
さてそれは、生物の在り方として最適な答なのだろうか。
唯一、出会い、学ぶ本能だけが、この「効率的な潮流」に異議を唱える。
現時点において、人間はまだ可能性の方に向いているのだ。
であれば、早急に最適解を求めるよりも、可能性を探索した方が人間には合っているに違いない。

気持ち悪い概念の習得

※昨日のエントリー「痛み概念の習得[id:rikunora:20080810]」の続きです。

虫が好きか嫌いかは、子供によってかなりの差がある。
中には、ミミズや毛虫、うにょうにょした虫といったものを、全く気味悪がらずに平気でつかむ子がいる。
よく言われるように、必ずしも男の子が虫好きで、女の子が虫嫌いというわけでもないらしい。
男の子で虫嫌いもいれば、虫は全く平気という女の子もいる。

それでは、私の小さい頃はどうだったかといえば、全くの平気であった。
小さい頃には、虫が気持ち悪い、という概念が無かったのである。
大きな石や、落ち葉の中を掘り返すと、わらわらした虫たちがたくさん出てくる。
それが好きで、よく庭先や近所の地面を掘り返していた覚えがある。
私ばかりでなく、小さい頃には虫を全く気味悪がらなかった、という人はたくさんいるはずだ。
それが大人になった現在ではどうかというと、子供の頃のように無邪気に虫をいじる気にはなれない。
実は、あのうにょうにょした生き物を気味悪く思う感情も、後から学習によって形成されたものなのだ。
こちらの方が「痛み概念の習得」よりも賛同を得やすいと思う。
というのも「うにょうにょが気持ち悪い」という感情は、痛みを覚えるよりもずっと後になって習得するからだ。

私は、最初にうにょうにょが気持ち悪いと思ったときのことを覚えている。
それは小学校の低学年でのことだった。
夏休みの宿題の一環で、クラスの誰かが学校にサザエとアワビの貝殻を持ってきた。
私の小学校は海辺近くの町ではなかったので、みんなで珍しげに貝殻を見た。
ところが、その貝殻の片隅に、取り残された貝柱が残っていたのである。
そこに、いつの間にか蠅がたかってきてウジが湧いた。
初めのうちは、やはりもの珍しく「これ、なんだろう」と思ってウジを見ていた。
そのときはまだ、別段汚いとも、気持ち悪いとも思わなかった。
ところが、あるとき先生がこれを見つけて、こっそりとウジをつぶしていた。
私は、偶然にも先生がウジをつぶしている所を目撃してしまったのである。
先生にしてみれば、小さな子供達に見せるものでもないし、衛生的にもよろしくない。
なので、ウジを退治するのは当然の行いだったはずだ。
それでも、私にとってはちょっとしたショックだった。
そのとき、ふと「この生き物たちは、いったい何なのだろう」という思いがよぎったのである。
何の目的も無く、肉片の中をうごめいて潰されてゆく虫たちが、とても虚しいものに思えてきた。
すると、その瞬間から、ウジというものがとても気持ち悪い、不気味なものに感じられてきたのだ。
それ以来、私の中でウジというものが一番嫌いな生き物となったのである。

それからしばらくは、「短くてうにょうにょしたもの」だけが嫌いで、「長くてうにょうにょしたもの」は平気、という中途半端な状態が続いた。
ウジはだめだが、ミミズはOKということだ。
なんというか、ウジは方向性が定まらず無目的な感じで、それに比べるとミミズは方向が定まっていて前向きな感じがした。
ところが時が経つにつれ、だんだんとウジの持つ気味悪さがミミズの方にも移ってきた。
そして今では一人前の大人並みに、うにょうにょする虫を気味悪がるようになってしまった。
ということで、「うにょうにょ=気持ち悪い」という感情も、後から学習によって形成されるものだったのだ。

どの程度覚えているかは別として、およそ人の持つ感情の大半は後天的に習得するものだと私は思っている。
私の場合、「痛み」と「気持ち悪い」の2つについては形成過程を思い出すことができる。
他のたくさんの気持ち、感情も、きっとこうして形作られているのだと思う。

それでは、こんな古い記憶を持ち合わせていると、何か良いことがあるのだろうか。
とんでもない。
こういった記憶を持ち続けていると、むしろ社会に不適合な場面の方が多くなる。
例えばこんな場面だ。
小さい子供は、体が汗でベトベトしていても、全く意に介さない。
(だいたい子供って、いつも汗でシメッとしているものだ。)
これも子供によるのかもしれないが、私はかなり後まで「汗でベトベト=気持ち悪い」という概念が無かった。
よく巷で「赤ちゃんはおしめが気持ち悪くなって泣き出す」といった説明が為されているが、私にはどうも腑に落ちない。
ひょっとすると皮膚が丈夫だったのかもしれないが、とにかくかなり高学年になるまで、この気持ちが理解できなかった。
そして、この気持ちを充分学習し損ねたまま、現在にまで至ってしまった。
なので私は今でも、こと「ベトベト」に関しては子供レベルに近い。
ときどき冗談半分に「不快概念の取得」とか言ってみたりするのだが、どうも周囲にはわかってもらえない。
もちろん健全な社会生活としては、わかってもらえない方が良いのだが、それでもやはりギャップは残る。

なので、普通に生活をおくる分には、あまり古い記憶はしまっておいた方が良い。
だからこそ忘れるのだろう。
もし機会があれば、どういう感情が最初からあって、何を後から習得するのか、思い起こしてみるのも良いかもしれない。
きっと以外なほどに、後から習得したものは多いのだから。

痛み概念の習得

誰でも、痛いことは嫌い。
人間だけでなく、動物だって、たたかれれば嫌がる。
「痛み => 嫌悪」という結びつきは、先天的に本能に仕組まれたものであろう・・・
おそらく多くの人がそう信じていることと思う。

しかし、これが違うのだ。
「痛み => 嫌悪」の結びつきは、幼い頃に、ようやくハイハイしたての頃に学習する概念なのである。
なぜ、そんなことが断言できるのか。
それは、私自身、痛みを最初に習得したときのことを覚えているからだ。

私が幼少の頃育った家は、二階建ての木造家屋だった。
二階には畳敷きの部屋が2つあって、南面は木造の廊下となっていた。
私はそのうちの1つの部屋(寝室)に寝かされていたのだが、何かの折りに部屋を抜け出して、廊下をハイハイして進んでいった。
その廊下の先には狭くて急な階段があった。
私はそのまま廊下を突き進み、階段に入ったところでバランスを崩し、ゴロゴロッと一気に下まで転がり落ちた。
天地がぐるぐる回転して、気がついたら階下に居た。
全身に、今の私が「痛み」と呼んでいるものが駆けめぐって、体は勝手に泣き叫んでいた。
そのとき、初めて気付いたのだ、
 「ひょっとして、今全身を覆っているこの感覚は、とても嫌な、つらいものなんだ」
ということに。
「痛み」と「嫌」が、このとき初めて結びついたのだ。
赤ん坊が「悲しいから泣く」のだと思っている人がいるかもしれないが、それはちょっと違う。
悲しみを感じるより先に、自動的に泣くのである。
階段から落ちて、激しくぶつかった後に、まず体が自動的に泣き出す。
神経に強烈な感覚が走り、体が自動的に泣き出した後で、最後に感情が
「これは避けるべき、嫌なものだ」ということに気付くのである。
「痛み => 嫌悪」の結びつきは、おそらく最初に強烈な痛みを感じたときに、学習するものなのだ。
私の場合は、それがあの階段から落ちたときだったのである。
たぶん、誰もが一度はこの学習を経ているはずだ。
私はどういうわけか、たまたまそのことを覚えている。
もちろん、赤ん坊が「痛み」とか「嫌悪」といった言語を知っていたわけはない。
なので、このことは「言語」で考えていたのではなく、今から「言葉」に直して語るのはとても難しい。
痛みという感覚と、泣き出すといった反応は、体で自動的に起こる。
心は、大げさに言えば、体で起こったことを眺めて、それを後からしかるべき場所に結びつけるのだ。
そして、その結びつきは、最初からあったのではない。
最初は無かった。
そして、初めて出会った1回目に、強烈な結びつきが形作られるのだ。

私には階段とは別に、もう1回「流血 => 嫌悪」の概念を取得した覚えがある。
こちらの方の記憶は、ほんの断片しか無い。
もう少し正確に言うと、階段の記憶と流血の記憶は混じり合って1つになっているのだが、
その一方で、確か階段のときには血を流していなかったはずだという記憶もある。
なので、おそらく流血の方は階段とは別に起こった事件だと思うのである。
確かそのときは台所か、そういった場所だった。
指を怪我して、血がたらたらと流れていた。
手を怪我して強い感覚に襲われている自分というものがいて、
その傍らに、自分を判断する心というものがあって、
 「ひょっとして、このたらたら流れている状態は、とても嫌なものなのではないか」
という気持ちが強烈に心を襲ったのである。

あの幼少のとき以来、「痛み」と「嫌悪」は、意識に上らぬほど心の奥底で固く固く結びついてきた。
たぶんほとんどの人はこのことをすっかり忘れて、「痛み = 嫌悪」を自明の理としていることだろう。
しかし、私はそれほど自明の理だとは思っていない。
ごく希に、たまたま「痛み」と「嫌悪」が結びつかなかったとか、
「痛み = 嫌悪」を学習するチャンスを逃してしまったとか、
そんなことがあっても不思議はないかな、と思うことがある。
常識からすれば、そんな生き物はさっさと死んでしまうはず、ということになるだろう。
しかし、ひょっとすると人の心はその常識を越えるかもしれない。
人の心は、生物としてギリギリのところまで柔軟に作られているように思うのである。


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追記:2008/09/04
「痛みを感じない病気」でググったら、こんなエントリーがあった。
痛みを感じない少年 - いそら
「彼は頭を壁にぶつけたり、学校の友達と荒々しく遊んでいるときでも常にスマイリーだ。これは彼が極めて稀な遺伝病にかかっているからなのだ。」

幸福量保存の法則

ずいぶん昔から、ひょっとすると物心ついたときから、私はずっと1つの妄想にとりつかれている。
それは「幸福量保存の法則」という妄想である。

「幸福量保存の法則」とは何か。
それは、
 「人類全体の持つ幸福の量と、不幸の量を全部足し合わせると、ちょうどゼロになる」
という考え方だ。
物理的、数学的に証明された法則ではない。
単に私がこれまで生きてきた中で学んだ経験則である。

私たちは、いったいどういったときに幸せを感じ、どういったときに不幸を感じるのだろうか。
私の感覚では、「何かと比べて良くなったときに」幸福を、逆に「何かと比べて悪くなったときに」不幸を感じ取る。
幸福や不幸は絶対的なものではなく、あくまでも何かとの比較において成り立つ、相対的なものだと思うのである。
どんなに贅沢な環境に置かれたとしても、やがて人はその贅沢に慣れ、ありがたみも薄れてしまう。
反対に、どれほど劣悪な環境に置かれても、やはり人は(死なない限り)その環境に慣れて、何とか耐えしのいでしまうものだ。
してみれば、幸せを感じる瞬間は、いままでの劣悪な境遇から、転じて贅沢な環境に変わったその落差にある。
同様に、不幸を感じる瞬間は、贅沢な環境から劣悪な環境へと落下する、その過程にある。
たとえ標高5000メートルの高地にいたとしても、周囲が一様に平らであれば、そこで感じるものは海抜0メートルに広がる平野において感じるものと、さして変わらないのだと思う。

ハッピーエンドで終わる物語は、初期の段階で主人公は不幸な境遇に陥らなければならない。
最後に幸福を感じるためには、その前に不幸である必要があるからだ。
はじめから幸せで、特に困難に遭遇することもなく、最後まで幸せといった、淡々とした叙述が物語に成り得るだろうか。

さて、自分一人が時の変化と共に感じる幸福、不幸と似たような気持ちが、他の人間との比較においても成り立つ。
私が幸福だと感じるのは、様々な意味で、周囲の他の人間よりも高い位置にあると自負したときである。
逆に不幸だと感じるのは、周囲の他の人間よりも自分が低い位置にあると感じたときである。
たとえ自分が本当は高い位置にあったのだとしても、周囲が自分と同じレベルで一様に高かったなら、私はそこから幸福を感じ取ることができない。
もし皆同じだったなら、そもそも高いとか、低いとかいった概念さえも生まれない。
同じことだが、全員が一斉に貧乏であったなら、誰一人として自分がみじめだとは思わないだろう。

いまここに、10人がいたとしよう。
10人のうち1人が、他の9人より抜き出ていたなら、抜き出た1人の幸福量は+9、残りの9人の幸福量は−1ずつである。
なぜかわからないが、そうなるように思える。
抜き出た1人は、圧倒的な羨望を集めるだろう。
ちょうどそれは、残りの9人分であるような気がする。
残りの9人は、1人が抜き出たことによって、同様に少しずつおもしろくない気持ちになるだろう。
それでも「あいつ1人が特別だったのだ」と割り切ることによって、各人が受け止める不幸の量はさほど大きくはならないだろう。
もし、抜きんでた人が2人で、劣った人が8人だったなら、それぞれの持つ幸福量は+4と、−1ずつになる。
2人が等しく抜き出ていた場合、ただ1人が突出していた場合よりも幸福の度合いは小さい。
それでも、そこそこの幸せを感じることはできるだろう。
反対に、10人のうち1人が、他の9人より劣っていたならば、劣った1人の幸福量は−9、残りの9人は等しく+1ずつの幸福を受け取る。
1人を犠牲にすることによって、残りの9人が等しくささやかな幸福を分かち合える。
これがいじめを形作る。
たとえば世界のどこかで飢えに苦しむ映像をテレビで見たとき、かわいそうだと思うのと同時に、自分がそうではなかったという安堵感を得てはいないだろうか。
普段見たことのない谷底を覗くことによって、初めて自分の住む場所の高さに気付くのである。
もちろん、幸福にモノサシはない。
それでも、幸福と不幸の割合を人数によって比例配分してみると、どうも自分が感じ取る気持ちの大きさにぴったり一致するような気がしてならないのである。

さて、以上の「幸福量保存の法則」を正しいものと認めると、直ちに次の結論に至る。
「他人との比較において幸福を求める限り、全員が幸せになることはあり得ない。」
そうなのだ。
あなたが幸せを感じた分、どこかの誰かがそれだけ不幸になっている。
「他人の不幸は蜜の味」。
そもそもみんないっしょに幸せになることなど、あり得ないのだ。
幸福の総量は一定であり、それをどこに、どれだけ分配するかということだけが問題なのだから。

もし幸福が比較によってもたらされるものだったなら、幸福の源泉は2つしか無い。
1つは空間的に、他人から奪い取ってくること。
もう1つは時間的に、未来から持ってくることだ。
前者の場合は、全員が幸せになることはない。
後者の場合、全員が幸せになれる(ことがある)が、幸せであり続けるためには、常に成長し続けなければならない。

あたりまえすぎて気付きにくいかもしれないが、我々は日常無意識のうちに「保存則」を用いて物事を考える。
歴史をふりかえると、「保存則」という概念が比較的新しいことに驚く。
質量保存の法則はラボアジェ(1774年)、エネルギー保存の法則は異論の分かれるところだが、ライプニッツ(1693年)あたりだろうか。
これらはざっと300年程度であり、決して太古の昔から人類普遍の概念ではなかったのだ。
保存量の流れを把握することは、世界の在り方を把握することに、ほぼ等しい。
乱暴な言い方をすれば、物理学とはエネルギーの流れを調べる学問であり、経済学とはマネーの流れを調べる学問である。
(マネーが保存量かどうかについては異論があるだろうが、少なくとも第一近似では保存量で良いだろう。)
物理学や経済学と同じように、人間社会には「幸福量」の流れがあるのではないか、と思う。
ただ、エネルギーやマネーと違って、幸福量にはいまのところ定量的に測定する手段が無い。
多数の意見を統計的に処理することによって、ある程度客観的な「幸福指標」は出せるかもしれない。
しかし、大多数の幸福指標が、私やあなたの特定のケースにあてはまるかどうかは、また別の問題だろう。
結局のところ「幸福量」はどこまでいっても(いまのところ)本人の主観に任せるしか無いように思われる。

こんな風に書くと、
「いや、そんなことはない。あなたも幸せ、私も幸せといった、Win-Winの関係があるではないか。」
といった反論がきっと為されることだろう。
つまるところ当人の主観の問題なので、「ああ、そうですか」と言ってしまえば、議論はそこで終わりになる。
ただ、おせっかいで言わせてもらえば、安易に幸福が湧いてくるといったおめでたい考えの大半は、内省が足りないか、単に気付いていないだけに思えて仕方ない。
あるいは気付かないように、あえて無視しているのであろう。
なぜ質量保存の法則といった自明の常識が、18世紀になるまで確立しなかったのか。
その一因には、気体として逃げていた質量に気付かなかったということがある。
あるいは、なぜエネルギー保存則はわかりにくかったのか。
その一因として、摩擦で失われたエネルギーに気付かなかったというのがあるだろう。
人の気持ちには、気体よりも、摩擦熱よりも気付きにくい一面がある。
例えば、人に慈善を施すことによって、密かな優越感にひたってはいないか。
そして、それを明らさまに指摘されると、あわてて懸命に否定したりはしないか。
あるいは人から受けた親切に表面的には感謝しつつも、内心「恩着せがましい」と負担に思ったりしていないか。
セールストークよろしく、下心丸出しの善意は善意ではない。
では、下心なしの、全く純粋な善意とは何なのか、少し考え込んでしまうのである。

賞賛を求めた時点で善意ではない。
哀れみを求めた時点で不幸ではない。
ご高齢の方には、よく「病気自慢」という不思議な話題がある。
こんなすごい手術をして内蔵を切り取ったとか、ガンの大手術をして九死に一生を得たとか、そんな自慢話である。
そこでは病気が重ければ重いほど、価値が高い。
幸福なんだか不幸なんだか、よく分からない。
そうかと思えば、子供たちの中には本人も気付かないうちに「仮病」になってしまう子がいる。
病気になると、周囲の人が親切になるし、注目してくれる。
なので、身体的には何の不都合もないのに、本当にお腹が痛くなったりする(らしい)。
幸福量は、物理的、外見的な状態よりも、人に恩を売ったとか、人に認められたといった要因を基準に据えるべきなのである。
なぜなら、幸福というものは結局は人との関係によってもたらされるのだと、ここでは考えている(仮定している)からだ。

もし可能であるならば、Win-Winの関係よりも、一方的優位に立った方がずっと幸福量は大きい。
今の世の中やビジネス社会では、それができないから次善の策として、Win-Winの関係などとうそぶいているに過ぎない。
事実、相手に関係を持続するだけの見返りがなかったなら、Win-Winの関係は成立しない。

つい先日も、大きな会社の偉い人が、こんな話をしていた。
「今や、中国、インドの成長は著しい。
 人口からして勝負にならないし、このままでは日本の将来が危ぶまれる。
 では、我々は一体どうすべきか。
 もう一度、我々の強みを思い起こそう。
 こだわりの品質、きめ細かな気配りをもって、世界と勝負しようではないか。」
大いに結構な話だが、1つ言わせてもらえば、この人は自分が中国やインドに生まれついたときのことを考えたことがあるのだろうか。
別にこの人だけが配慮に欠いているわけではない。
上の主張は日本中至る所で、あたりまえのように言われていることだ。
私はこの話を聞かされるにつけ、そもそも「勝負しよう」ということ自体が間違っているのではないか、と感ずる。
中国やインドが不幸な分、日本は幸福であり、アメリカが幸福な分、日本は不幸なのだ。
それでも、なりふり構わず日本だけが幸福になることが、果たして本当に良いことなのだろうか。

別に世の中に絶望せよと言うのではない。
幸福の総量には限りがある。
この事実を、正義でもなく、悪でもなく、人の性として素直に認めた方が良いように思える。
それを認めた上で、あえて「幸福量保存の法則」の破れを探した方がよい。
すると、何が偽善で、何が本当に立派な行いなのかが見えてくる。
物理的なエネルギー保存則に破れは無い。
しかし、幸福量保存の法則は、ごく希ではあるが、破れることがあるのではないかと思えるのである。

「情けは人のためならず」という諺がある。
この言葉は、よく次のように誤解されている。
「なまじ人に情をかけると、かえってその人のためにならない。だから人に情をかけるべきではない」
もとの意味はそうではなく、
「人に情けをかけておくと、それは巡り巡っていずれは自分に返ってくる。だから人に情をかけなさい」
ということだそうだ。  wikipedia:情けは人の為ならず
ただ、私はこの解釈にも少々不満が残る。
「いずれは自分に返ってくる」といったあたりに、商人のように計算高い、打算が含まれているような気がするからだ。
もし自分に返ってくる可能性がなければ、情はかけない、ということなのだろうか。
私は、情をかけるという行為は、巡り巡って返ってくるようなものではなく、本当に、その場で自身の満足につながるものだと思う。
実は、情をかけることによって一番満足するのは、存在意義を満たされた自分自身なのである。
ボランティア活動によって一番助けられているのは、ボランティアに生き甲斐を見出した当人なのだ。
これは知っておいてよいことだろう。
そこまで認めた上で、情をかけるのは立派な行いである。
それでも「ああ、俺は良いことをしたなー」などと悦にひたるのは、まだまだ修行が足りない。
その密かな悦楽が、相手に対して密かな「恩着せ」を生んでいるのだ。
純粋な善意とは、何物も求めない、空気のような状態を指すのだろう。
そこまで至れば、幸福量も不幸の量も関係ない、高い境地に達したと言える。
残念ながら私はとてもそこまで達していないので、日々修行を積むわけである。

情をかけるよりももっと立派な行いは、人知れず、一人不幸をかみしめることである。
もし世の中に、不幸をブラックホールのように吸い取ってくれる点が存在すれば、結果として世の中全体の幸福量は増大する。
幸福と不幸には不思議な性質があって、それぞれ強い力で他人に伝搬する。
実際、幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼ぶ。
これを象徴する話として「にわとりのつつき順位」がある。
にわとりは狭い小屋の中で飼うと、1番上位のにわとりから下位のにわとりに至るまで、一列の順序関係ができ上がる。
1番上のにわとりに不満があってムシャクシャすると、1番上のにわとりは2番目のにわとりをつつく。
すると、2番目のにわとりはムシャクシャして、3番目のにわとりをつつく。
3番目のにわとりは4番目を、4番目は5番目を、といった具合に、ムシャクシャは上から下に順番に伝わってゆく。
そして、最後の最も下位のにわとりは「さかんにコンクリートの床をつつく」行動に出るそうだ。
私の聞いた話だと、上から順番に、1つずつ下をつつくということだった。
1番上は、2番目をつつく。
順序を飛び越して、3番目、4番目をつつくということはあまりしないらしい。
(この部分についてはうろ覚え。下を全てつつく、といった記述も見受けられるので、真実はいかに?)
こうして見ると、最もかわいそうであり、かつ、最もにわとり社会に貢献しているのは、一番たくさんつつかれる、一番下のにわとりである。
不幸な目にあったとき、それを一人胸の内にしまっておくのは、実際非常につらい。
たいていの人は、訴えるなり、つつくなり、愚痴をこぼすなどしてどこかに不幸を伝搬する。
しかし、伝搬することによって、当人から不幸が消えるのかもしれないが、世の中の総不幸量が減るわけではない。
仮に不幸の量が一定なのだとしたら、必ずやそれは最下位の、ブラックホールのような掃き溜めにたまっているはずだ。
そして、テロや暴動で爆発しない限り、不幸はそこで吸収されているはずである。
当然のことながら、これはつらい。
特に、他人に伝えることができない不幸というものが、一番つらい。
私は、人間社会が成立しているのは、実は不幸のブラックホールがあるからだと思っている。
そこは決して語られることもなく、誰から認められることもないのだが、日々黙々と、世の不幸を吸い取っているのである。
社会貢献という点からすれば、不幸のブラックホールほど世の中に貢献しているものはないであろう。
なので、人知れず不幸をかみしめることは、真に立派な行いなのである。

しかし世の中には、情をかけることよりも、不幸を一身に背負うよりも、もっと立派な行いがある。
それは「不幸を幸福に変換すること」である。
原理的に考えて、これより立派な行いは存在しない。
正直言うと、私はその現場をこの目で見たことはないし、自ら実施したこともない。
物語の中や、風の噂に、そのようなことがあると聞かされるのみである。
しかし、どうやら人間には、不幸を吸い取って幸福に転じるような、すごい力が備わっているらしいのだ。
これは保存則の概念に全く相容れない、人間だけが持つ奇跡である。
もし「不幸を幸福に変換する」方法が見つかれば、当然ながら世の幸福量は一方的に増大する。
これこそ永久機関もかくやと思える、人類の夢だと思うのである。

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(2008/06/26 追記)
その後、「幸福量保存の法則」でググってみたら、この言葉は何気に普及していることがわかった。
しかし、人によって使われ方、意味のとらえ方が少しづつ異なっているようだ。

1.不幸の後には幸せがくる。逆に、幸せが続けばそのうち必ず不幸なことがおこる。
人生で合計するとプラスマイナスゼロになるという考え方。
人間万事塞翁が馬」というやつである。
だから、人間はみんな結局は平等なんだよ、ということになる。

2.人類全体で、幸せな人がいれば必ずそのぶん不幸な人がいる。
これを合計するとプラマイゼロになるというような考え方。
「他人の不幸は蜜の味」というやつである。
幸せは他人から奪うものであり、平等に幸せな状態はあり得ない、ということになる。

1.と 2.は正反対のように見えるが、
1.を時間軸、2.を空間軸と考えれば、両者は実は同じところに源を発しているのではないかと思う。
いずれにせよ、こんなものを信じるか、信じないかは、結局本人の心がけ次第というあたりに落ち着くのだろう。